東洋と西洋のハイブリット、ショーン・レノン!

ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』ノーカット版、今回はおそらく世界で一番有名な日本人ハーフを紹介します。ビートルズファンならずとも、世界に平和と調和を呼びかけ、大きな影響を与えたこの二人を知らない人はいないでしょう。


ジョン・レノンとヨーコ・オノの一粒種

ショーン・レノン

父がイギリス人
Sean Taro Ono Lennon 1975年10月9日〜

父は英国人のジョン・レノン、母は芸術家のヨーコ・オノ(小野洋子)。米・ニューヨーク生まれのミュージシャン。

父と同じ誕生日に生まれ、エルトン・ジョンが名付け親になった。日本名は「小野太郎」。
両親の出会いは1966年11月9日。ヨーコがロンドンで開いた個展にジョンが訪れた時のこと。第一印象をヨーコは、作品として展示していた林檎をかじった彼を「いけ好かない奴」、ジョンは「自分と同じような芸術家の女性と出会うことが夢だった。ヨーコがまさにそうだった」と回想している。二人はまもなく同棲、(お互い配偶者がいたので離婚の末ようやく)1969 年に正式に結婚。ビートルズ解散後は音楽や平和運動で世界に話題を振りまいた。だが夫妻は、ヨーコの2度の流産や一時不仲になり別居するなどの数々の困難に見舞われる。ショーンはそうした末にやっと授かった子で、夫妻はショーンを溺愛。ジョンは「専業主夫」となり息子を手塩にかけて育てた。ショーンが4歳の時、遊びに行った友達の家でビートルズを聴き、父がその一人だったことを初めて知らされビックリ仰天。飛んで帰って「パパはビートルズだったの?」と父に聞いた事は有名。これがきっかけでジョンは再び音楽を開始。『ダブル・ファンタジー』(1980)を制作した。しかしアルバム発表数週間後の12月8 日にジョンは射殺され他界。
父の死を母から聞かされたショーンは気丈にも「ママは素敵だからまた誰かと一緒になれるよ、心配しないで」と言ったという。だが「すぐに自分の部屋に行って泣いていた」とヨーコは後に語っている。


ショーンはミュージシャンとして17 歳でレコードデビュー。日本のバラエティ番組やCM にも出演。英米のミュージシャンとの共演の他、日本のアーティストとともにライブを行うなど様々な音楽活動を精力的に続けている。NHK「あまりにも偉大な父に畏怖することもあったが、今は、自分が東洋と西洋の文化を備えたハイブリッドであり、民族の発展という点から見れば人類はやがてひとつになる。自分はその最先端にいる」などと語っている。まさに『イマジン』の思想を体現しているようだ。

ところで…
ヨーコにはもう一人「ハーフ」の子がいる。
ヨーコの前夫は米国人アンソニー・コックスという映像作家でジャズミュージシャン。彼との間にキョーコ(京子:現在は結婚してKyoko Chan Cox)という女の子がいる(1963年8月8日生まれ)。
だが、キョーコがまだ3〜4歳の頃、ヨーコがジョンのもとに走ったため、マスコミの餌食になることを嫌ったコックスがキョーコを連れて出奔。ヨーコはオカルトや占いに頼るほど半狂乱になって娘を探した。その時作った歌が『京子ちゃん、心配しないで don't worry kyoko』だ(ほとんどdon't worry だけの詞だが)。その後ヨーコはコックスと裁判で親権を争ったが、父にすっかりなついてしまったキョーコは父を選んでしまい、以降この母娘は音信不通になってしまった。だが1993 年、キョーコが結婚を決め、どうしてもそれを母に知らせたくなった。母に電話をしたら秘書が出て、取り次いでくれない。名乗らないまま電話番号だけ伝言したら、その直後に母の方から直接電話があったそうだ。さすがヨーコ、直感で娘とわかったらしい。実に22年ぶりの会話で、その時すぐに和解し、今は母娘というより友達のような付き合いだそうだ。


以上、
参考資料は
Channel4のドキュメンタリー『The Real Yoko Ono』
NHK ETVの『英語でしゃべらナイト

書籍では
ザ・ビートルズ・クラブ 著
僕らのジョン・レノン ~ジョン・レノン生誕65年&没後25年~ (別冊宝島ムック)

キース・エリオット・グリーンバーグ
1980年12月8日 ジョン・レノンのいちばん長い日 (P‐Vine BOOKs)

ジェフリー・ジュリアーノ著
ジョン・レノン アメリカでの日々

飯村隆彦著
YOKO ONO―オノ・ヨーコ 人と作品 (講談社文庫)

アラン クレイソン、ロブ ジョンソン、バーブ ジュンガー著

オノ・ヨーコという生き方 WOMAN

オノ・ヨーコという生き方 WOMAN

オノ・ヨーコ
ただの私 (講談社文庫)

ビートルズ事典 改訂・増補新版

ビートルズ事典 改訂・増補新版


などを参考にしました。
ジョンが暗殺された経緯などは僕のサイトの特設ページ
http://www.yunioshi.com/1208.html
をご覧ください。

エルトン・ジョンがつけた「ショーン」の名は、父ジョン・レノンのルーツ、アイルランド系で最もポピュラーな「ジョン」に相当する名前で、日本の「太郎」と同じような感じですね。だから「ショーン・太郎」というのは父母の母国を代表する名前を継いでいるという、素晴らしい名だと思います。

ヨーコについては、「ロックも分からないくせに横槍を入れてビートルズを解散を追い込んだ悪女」みたいに言われ、世界中のファンからずっとバッシングされ続けてきましたが、まったくお門違いの批判だったことが最近の関係者の証言や伝記によってだんだんと分かってきましたね。ヨーコは、ジョンにとって心の拠り所であり、音楽だけでなくさまざまな芸術活動や平和支援活動を支えた人でした。

『ハーフマニア』の「国際結婚した有名人のコーナー」P104 にヨーコの伯父夫婦について書いていますのでそちらもご参考にしていただきたいのですが、ヨーコの伯父はロシア人女性バイオリニストと国際結婚しており、ヨーコの父はその兄嫁に音楽の手ほどきを受けてピアニストを目指していたという経緯があります。だからヨーコも幼少からピアノを習い、サラ・ローレンス大学では詩と音楽(和声と旋律)を正式に学んでいます。最初の夫はジュリアード出身の作曲家・一柳慧(いちやなぎとし 後に文化功労者)だし、かなり音楽の素養があったといえます。ジョン・レノンと知り合ってからは、ジョンの創作にも大きな影響を与えており、ジョンはヨーコが弾いたベートーベンのピアノ曲『月光』にインスパイアされて名曲『ビコーズ』を作曲した話は有名です(メロディを逆に弾かせたらしい)。


二人の出会いは1966年の秋で、実はこの年はビートルズの来日があった年です。これも詳しくは僕のサイトの特設ページをご参考いただきたいのですが、
http://www.yunioshi.com/beatlesinjapan.html

ジョンは来日時にこっそりホテルを抜け出し、原宿のお土産屋などで骨董品や美術品を買い漁っていて、日本についてはヨーコと出会うかなり前から興味を持っていたらしいことが分かっています。その同じ年に後の人生を大きく変える日本人女性と出会うとは非常に運命的なことを感じますね。


ショーンが父と同じ誕生日というのも運命的なものがあると思います。「人類はやがてひとつになる。僕がその最先端」という彼の言葉はとても含蓄があり、僕の大好きな言葉で『ハーフマニア』のモチーフとなりました。ショーンはホンダ・フリードのCMに出演するなどで日本のお茶の間でもお馴染みになりました。チボ・マットなどの音楽活動があり、オリジナル曲もいいものがあるのですが、どうしても「七光り」が強すぎて正当な評価を受けていない気がして残念。でもいつかブレイクする時が来るのでは?と僕は応援しています!


最後にレノンの前妻シンシアの自伝も面白かったので紹介します。ここにはジョンの育ての母・ミミ伯母さんが亡くなった時に、葬儀にヨーコとショーン(その時ジョンはもうこの世にいなかった)が参列し、シンシアと会って話したことが書かれています。僕らが想像したドロドロしたものはなく、非常にあっさりとした関係が描写されていて、何だか肩透かしをされたような気分になりました。

ジョン・レノンに恋して