追悼吉村昭。史実の劇的描き方の天才でした。

吉村昭が亡くなった。
実在の事件や人物にスポットを当て、緻密で執拗なまでの取材から数々の傑作ノンフィクション小説を生んだ作家だ。
簡潔でありながら力強い表現であらゆる時代や題材をこなす名人だった。
普通このジャンルの作家だと歴史上有名な武士や軍人、学者などの生涯を描いたものか、「大化の改新」とか「本能寺の変」のような戦いや革命に題材を得て書かれたもの、あるいは現在の企業や政財界の大物の知られざる事実などをテーマにしたものが多いが、ほとんどの作家はこの中で自分の得意なテーマに絞って書く。
ところが吉村昭はどんな時代やどんな人物どんな事件だろうと、自分が興味を持った事象であれば何でも書いてしまう希有な作家だった。

僕は『戦艦武蔵』を読んで以来はまってしまって一時彼の著作を読みまくった。
まず彼の取り上げる「題材」が抜群に面白くて。
そしてその構成や描写は映画を見るように「劇的」なのだ。

例えば最初にはまった『戦艦武蔵』はおおよそこういう場面から始まる。
戦艦武蔵 (新潮文庫)
(『戦艦武蔵』)


太平洋戦争直前、日本のある屋敷に軍の関係者が極秘で訪れる。
「おたくの庭の棕櫚(シュロ)の樹を接収する」
「シュロ?ですか…」
こうしてシュロの樹が切られ、やがて日本中のシュロが無くなってしまう。
集められたシュロはどうなったのか。
それらはすべて長崎港に集められていた。
造船所に巨大なスダレが出現している。その簾に使用されていたのだ。
そしてその簾の中で極秘に作られていたのが戦艦武蔵だった…。
当時大和と並び世界最大の戦艦はこうして生まれていった。

ほんと、ぞくぞくするような書き出しだ。

次に読んだ『零式戦闘機』はもっと劇的だ。
零式戦闘機 (新潮文庫)
(『零式戦闘機』)


同じく昭和の初期の頃である。
深夜、皆が寝静まった頃、名古屋の町をゴトゴトと牛に引かれた大きな荷台が行く。荷台は厳重に梱包され中は見られない。
実はこの中の荷物こそ、当時世界最速の乗り物だったゼロ戦だった。ゼロ戦が開発された名古屋の工場から、テスト飛行のために岐阜の飛行場まで運ばれていたのだが、当然軍事機密兵器なので誰にも見られないよう慎重に運ぶ必要があった。しかも精密機械であったため、トラックでは鋪装されていない凸凹道で機体を破損する恐れがある。そこで牛を使って一晩かけて運んだのだ。
世界最速の飛行機が牛で運ばれた事実。
この描写で読者はゼロ戦がどういう意義があったのか、これに関わった人々のドラマを感じ取り、開発の物語に期待を持つことになるのだ。

ね、このシーン、映画にしたいくらいでしょ。

このように太平洋戦争前後の事件や軍内部を描いたものも多いが、吉村昭は特異な人々に照準を合わせたものも多い。
破獄 (新潮文庫)
(『破獄』)


『破獄』は、やはり太平洋戦争前後を時代背景に、網走刑務所など絶対脱出不可能と呼ばれた刑務所を4回も脱走した実在の男の話だ。刑務所の個室の中で、毎日の食事に出る味噌汁を少しずつ何ヶ月もかけて手錠や鉄柵に浸けて錆びさせて脱出したり、部屋の隅を使って手足を密着させて登り天窓から逃げたり(スパイダーマンみたい)といった、超人的な力と、刑務官を欺く知力・集中力。脱走の常習犯であれば次の刑務所ではもっと厳重な監視が行われるが、彼にとってはまったく屁でもない。
そして彼が唯一味方と信じたある刑務官との交流が描かれている。
(これは緒方拳主演でテレビドラマ化されている)

あとは大自然の脅威や自然災害との関係を描くものも得意で、印象に残ったのは、
羆嵐 (新潮文庫)
(『熊嵐』)


『熊嵐』は日本獣害史上最悪と呼ばれた巨大な人食い熊の話である。明治時代、
北海道の開拓民の集落に、冬眠し損なった巨大ヒグマが現れる。腹をすかした熊は最初は農耕馬を襲う。深夜、馬のいななき(悲鳴)が集落に響き渡り、集落は恐怖に襲われる。

…まるでホラーである。

熊は次についに人家を襲う。当時の開拓民の粗末な家はひとたまりもなく破壊され最初の犠牲者が出る。集落は大きな村から離れているため、助けを呼びに行く暇もなく、人の味を覚えた熊は次々と人を襲い、結局6人もの男女が食われてしまう。中には夫と子供の目の前で熊に食べられてしまう女性(しかも妊婦だった)もいた…。 人々はついに集落を捨て、極寒の荒野を着の身着のまま脱出し、大きな隣村へと向かう。
ここまではかなり悲惨でまさにホラーのような恐怖の連続。
ところがここからが面白い。
事態を重く見た当局は熊対策のため、凶悪な熊を専門に退治する凄腕老ハンターを雇う。後半は極寒の北海道の大自然の中で、この老ハンターと、人知を越えた野生の力を持つ巨大熊との壮絶な戦いが描かれるのだ!

昔ハリウッドの動物パニック映画『グリズリー』というのがあったが緻密さとリアル感(何せ実際にあった話なので)ではこっちの方が遥かに面白いぞ!

この他
関東大震災』『三陸海岸津波』なんて災害ものの傑作ノンフィクションもある。これらは大地震津波に対して危機意識を持ってもらうため若い人も読んで再認識して欲しいくらいで
す。

吉村昭がこうしてあらゆるジャンルを手がけることで培った深い当察力と博識ぶりは、短編フィクションにも十分活かされていて、これらもどれもこれも傑作だ。
そして取材旅行などで得た題材で書かれたエッセイの数々も味わい深い。
史実を歩く (文春新書)
(『史実を歩く』)


ともかく彼の頭の中にまだまだあったと思われる、いろいろな記憶やアイデアが失われてしまったのは本当に残念ですね。御冥福をお祈りします。

映画化されたのは
『密会』
『漂流』
『魚影の群れ』
魚影の群れ [DVD]


『童謡物語』
『うなぎ』
うなぎ [DVD]


の五作。意外と少ないなあ。監督たちもほとんど鬼籍に入ってしまった…。