ポジティブ女王LiLIcoの巻

今回は拙著『ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』から、「僕が選んだこの人!っ」を紹介していきます。
社会評論社と共同執筆者(株)ドローイングスタジオマネージメントのご好意により本文ノーカットでお送りします。それに本には入れられなかった補足資料などで構成します。

第1回は映画コメンテーターのLiLiCoです。ずっとTBS系の『王様のブランチ』で歯切れのよい映画紹介をしていたので注目はしていたのですが、あんまり色が黒いのでアジア系の人で日本生まれのハーフかなと思っていましたが、全然違っていました。北欧系なのでもともと物凄く色白なのだが、体は日焼けサロンで焼き、顔は黒いファンデーションを塗りたくって黒くして健康的なキャラを作っているそうだ。2012年くらいから歌を披露する番組で再注目を浴び、すぐにその底抜けに明るいポジティブなキャラからテレビに出ずっぱりの人気者になった。特に若い女性からの支持が強いようで、「姉御」のような慕われ方をしているみたいですね。そんな彼女は本当にショッキングな過去と、信じられないような人生を送っていたことを著書やバラエティ番組などで告白していて、↓のようないつもおちゃらけた表情を見せる彼女との「ギャップ」がこれまた凄いのですが、話を聞いてますます彼女のファンになった人(僕もその一人)も多いのではないでしょうか?

(株)ドローイングスタジオマネージメント 曽根愛菜さん作⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


ホームレス5年を経て映画コメンテーター、タレントとして大成功
LiLiCo
 父がスウェーデン
リリコ 本名:アンソフィー 1970 年11 月16 日〜

映画コメンテーター。ハリウッド俳優などが来日した際の記者会見の司会やインタビューの場には引っ張りダコの売れっ子。芸能人歌ウマ選手権のような番組でも、ホイットニー・ヒューストンの歌を完璧に歌いこなし「女王」のような存在だが、実は彼女、もとは歌手であった。上手くて当然だが、歌手としては成功しなかった。
父グンナーはアラン・ドロン似のスウェーデン人。薬の研究をしていた。ジョン・レノンに憧れ、ヨーコ・オノのような日本人女性と結婚したいと思い、スウェーデンを旅行中のバックパッカーだった日本人女性をたまたま見かけ、ナンパ。それが母・昌代である。昌代はこれまたアラン・ドロン好きな面喰いだった。そしてLiLiCo はストックホルムで生まれた。9 歳離れた弟が一人いる。ところが物心ついた時、もう両親は不仲で、家には怒号と皿が飛び交っていたという。結局LiLiCo が9 歳の時、両親が離婚、母と弟と暮らすことになった。弟は病気がちだったため、彼の食事を作るなど面倒を見ながら母を支えた。
やがてLiLiCo は日本の祖母・たつから送られてくるアイドル雑誌やレコードに夢中になり、18 歳の頃には日本で歌手になりたいと思うようになった。母は「無理無理!」と反対したが、1 年だけ挑戦させてと説得して来日した。日本では最初祖母の家に居候した。だが、当時のLiLiCo は日本語が全く話せない。そんな彼女に対して祖母はずっとしゃべり続けてくれたという。アルバイトをしながら歌手のレッスンを受け、日本語も何とか喋れるようになった20 歳の時、歌手として浜松の芸能プロに所属が決まる。
しかし、この時代の生活はひどかった。マネージャーの車で地方のイベントやスナックまわり。22 歳くらいから只同然のギャラで車の中でのホームレス生活を5 年も強いられた。1 ヶ月間スルメで空腹をごまかし、23 キロも痩せた。公園の水道やガソリンスタンドで洗濯や体を洗った。真冬は寒くて堪らなかった。
だが結局泣かず飛ばずのまま、この事務所を辞め、しょこたんこと中川翔子の母が経営する店でアルバイト。芸能関係者もよく訪れるこの店で底抜けに明るく面白くしかも抜群の歌唱力を持つ彼女の存在が次第に知られていく。この間も芸能活動は続け、映画『82 分署』などに端役で出演。ヌードも辞さぬ、正に体を張った演技も披露している。2001 年、チャンスが訪れる。TBS の人気バラエティ『王様のブランチ』の映画紹介コーナーのコメンテーターに抜擢され、以来レギュラー出演してお茶の間でおなじみになった。もう30歳になっていた。
父とは35 歳の時に再会した。スウェーデンに帰国した時LiLiCo の方から連絡して食事に誘い、2 人で飲んだ。父は、母からLiLiCo が出演しているビデオを見せてもらっていた。トム・クルーズにインタビューしている映像を見て「君は凄いね」と認めてくれた。
父はLiLiCo が子供の時に初めて描いた4 コマ漫画も大切に持っていたという。それ以来、父とは少しずつ連絡をとるようになった。2011 年12月父にクリスマスカードを書いていたら突然涙が止まらなくなった。それまで両親のことは名前で呼んでいたが、この時初めて「パパへ」と書いた。自分でもどうしたんだろうと思った。40 歳になって初めてお父さんだと思うようになった。「今からでも遅くないので家族っぽいことをしたい」とLiLiCo は語る。2012年4 月に母が他界してからは一層父との絆が強くなった。仕事でヨーコ・オノにインタビューする機会があった。ごくわずかな時間しか許されていなかったが、思い切って、自分の両親のなれそめを伝えると、ヨーコは大喜びし、LiLiCoと2 ショットの写真を撮らせてくれた。父にその写真を送ったら、父は一生の宝だと言って感動してくれたそうだ。今でこそ「人生は奇跡!」と言い切り、毎朝目覚めると「よーし!今日もチャンスが転がってる!」と超ポジティブで人生を謳歌し、皆に元気を振りまくLiLiCo だが、彼女にもこんな辛い過去と厳しい下積み生活があったのだ。


以上、『ハーフマニア』の本文は
朝日新聞『おやじのせなか』(2012年4月6日)
LiLiCo著:『ザリガニとひまわり』(講談社刊)
『ウチくる!?』2012年4月8日放送
その他、『SMAP×SMAP』『原宿ネストカフェ』『ダウンタウンDX見たい!見せたい!スターのDX!』などの出演番組を参考にしています。


自伝『ザリガニとひまわり』ではホームレス時代などの苦労話が語られているが、実はもっとずっと衝撃的な内容が2012年12月21日放送『中居正広の金曜日のスマたちへ SP禁断の告白』で暴露されていたので今回はその辺を少し詳しく書きます。

父との別れ、母からの虐待
LiLiCoが9歳の時、弟トーマスが生まれるが、医者から喘息とアレルギーで3歳まで生きられないと宣言される。父は「こんな体の弱いのは俺の子でない」と言い放ち、家を出て行ってしまった。何とも酷い親である。だが、母はもっと酷かった。母はこの異国で機械の設計技師として働き二人の子を育てなければならず、その時期からナーバスでヒステリックになり、病気の弟の世話をLiLiCoに押し付けた。母は「あんたを産んだ覚えが無い」といい、LiLiCoに母と呼ぶことを拒んだ。そのためLiLiCoは幼い頃から母をずっと名前で呼んでいた。一度だけママと呼んだら「誰それ?誰?誰?」と切れられ、以来一度もママとかお母さんとか呼んでいないという。こうした虐待といえる環境で育ったLiLiCoだが、学校でもハーフの彼女は同級生から壮絶なイジメに遭った。家でも学校でも自分の居場所がなかったのだ。唯一現実から逃れ楽しむことが出来たのが祖母から送られてくる日本のアイドル雑誌とレコードだった。アイドルを目指し高校を出てすぐに来日したのは、母から逃れたいというのも本音だったのだ。


ホームレス時代の真相
その後のホームレス時代の話は本文どおり。ホームレスになったのは浜松の所属事務所から追い出されたためで、その事務所の女社長の家に居候していたのだが、ある日帰ると鍵が合わず中に入れなくなっていたという。マネージャーの守さんはその事務所の女社長の実弟で、結局その守さんと車中生活をすることになった。彼はLiLiCoの才能を買い、彼女とともに東京で営業を続けたのだが、その時は全く売れず、食うや食わずの暮らしをしていた。ファミレスのドリンクバーの飲み放題の飲み物で空腹を満たし、隣の客の残飯を拾って食うなんて当たり前だったというからかなり厳しい生活を強いられたようだ。そのうち彼女がセクシータレント兼ショーパブのホステスとして売れ始め、やっとマンション生活ができるようになった頃、二人の関係もギクシャクしたものになり、別れてしまった。以来、守さんは行方不明でいまだ会っていないという。
金スマ』では、浜松の女社長がゲストで招かれて出演、LiLiCoと約20年ぶり再会していた。社長はLiLiCoを追い出してはいないと証言。もう少し浜松で頑張ればきっと芽が出ると東京行きには反対してたのだという。鍵の件はおそらく弟の守がLiLiCoを東京で売りたくてやった狂言だろうと推測していると。それを聞いたLiLiCoはかなりのショックを受けていた。今まで思いこんでいた事実とは真逆だったのだ。


母との葛藤
ところでその後の母だが、スウェーデンからLiLiCoに始終メールを送ってくるようになった。その内容のほとんどは「私はこれから自殺する」。そしてLiLiCoに対する恨みつらみばかりだった。かなり精神を病んで始終トラブルを起こしているようだった。とっくに離婚した父が見るに見かねて母の元に戻り看病をした。LiLiCoが心配して「スウェーデンに帰る」と父に伝えたら、父から「来るな!きっと母に殺される」と返事があったというから相当酷い状態だったようだ。

数年前母が弟と来日した時、夕食を共にしたのだが、最後は大喧嘩になり、母から「誰だかわからないけどご馳走様」と握手されて別れた。それがLiLiCoが母と会った最後だった。母は2012年にスウェーデンで亡くなってしまい、母が本当はLiLiCoのことをどう思っていたのか結局謎のままになった…

しかし番組の最後の方で父の証言があった。母は近所の人たちにLiLiCoの日本での活躍を誇らしげに語っていたというのだ。言葉や態度には一切出さなかったが、母は実はずっとLiLiCoを気遣っていたのに違いないと。
なお、健康が心配された弟トーマスは無事に成長して今大学教授だそうだ。彼に子供が生まれた時が「人生で一番幸せだった」と言っていた。この2つの話を聞いた僕はかなり救われた思いがしてますます彼女が好きになった。


最後に小ネタ少々。
・LiLiCoは一度離婚をしている。かなり辛い出来事など思うのだが「人生で一番やって良かったのが離婚!」と番組で言っていた。彼女ほどハードな人生を送っていればもう離婚ぐらいたいしたことないのだろう。
・LiLiCoのCDデビューは『過ぎてしまえば』という曲。彼女の半生を知ったらピッタシのタイトルだと思いますねえ。これは映画『幻想のParis』という映画の主題歌に採用されたもの。この映画の監督は『刑事コジャック』や『紅の豚』の声優・時代劇の俳優として知られる森山周一郎だ。
・「LiLiCo」という芸名については、彼女が好きなテレビのミニシリーズのヒロインの名に因んでいる。そのミニシリーズは『レース』というタイトルで、ヒロイン・リリーはフィービー・ケイツが演じていた。原作はシャーリー・コンラン。リリーは大成功したポルノ女優で、彼女の屋敷に呼ばれた4人の女性のうち本当の母は誰なのか?4人の過去に遡り、それぞれの立場・関係が具に語られていく…。続編もあるサスペンス超大作だ。余談だが僕はこのミニシリーズを1980年代に日本でビデオソフト化した時の担当の一人でありまして、芸名の由来を聞いた時に非常に親近感を覚えました。さすがLiLiCo、マニアックな選択だねえ。ビデオはもう廃盤になってしまい観る機会はほとんど無くなってしまい残念だが、原作もミニシリーズも大変な傑作だった。何年か前に日本のテレビドラマに『レース』そっくりなモチーフのものがあったが、コンランの名が全く出てこなかったのでびっくりしたことがある。偶然じゃないはずだろうが。
本は出ている!↓

レース 百合が咲いたあの時から 上 (ヴィレッジブックス)

レース 百合が咲いたあの時から 上 (ヴィレッジブックス)

最後に一番参考になった本を紹介
[rakuten:book:14043065:detail]
ナゼ、ザリガニと思うのだが、スウェーデンではザリガニをよく食べ、旬にはザリガニ祭りがあり、ザリガニの歌を歌いながらみんなでザリガニを食べるという奇習があるとLiLiCoが紹介していた。

ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!

ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!