3オクターブの声域を持つ世界的ロックシンガー

今回は松田優作に続き『人間の証明』つながりでジョー山中です。

花木マロン作



ジョー山中(ジョーやまなか、本名:山中明 1946年9月2日 - 2011年8月7日)

横浜生まれ。自伝『証(あかし)―永遠のシャウト』の中で「本当の父親は顔も名前も知らない。日本に進駐していたアメリカ軍の兵隊だったらしい」と、アフリカ系アメリカ人の米兵と日本人女性との間に生まれたことを明かしている。

7人兄弟の中で唯一のハーフだった。小学生の時母が他界。また火事で家を失い、ジョーは神奈川県内の養護施設を転々として育った。少年時代は差別と戦い喧嘩三昧の毎日。その腕っぷしの強さを聞いた金平ジムからスカウトされて、プロボクサーとしてデビュー。だが、これも長続きせず、すぐに引退。シンガーを目指し、いくつかのバンドを経て1966年、グループサウンズ(GS)ブームの中、491(フォー・ナイン・エース)のボーカル「城アキラ」としてデビューした。1968年、内田裕也率いるフラワーズのライブ会場で、観客として来ていたジョーのルックスに内田が一目惚れ。内田の強い勧めでバンドに加入。こうして3オクターブもの驚異の音域と、ハーフならではの抜群のリズム感とパワーを持ったジョー山中の才能が一気に開花。バンドは本格的なロックバンド、フラワー・トラヴェリン・バンドに昇華した。バンドは1970年にカナダに渡り、長期に渡るツアーで人気をものにした。北米でリリースしたアルバム『SATORI』はカナダのヒットチャート1位を獲得。ジョーの卓越したボーカルとテクニシャン揃いのミュージシャンが奏でる、ダイナミックかつ日本テイストを加味した繊細な作風が「ロックの本場」のリスナーたちを唸らせた。世界に進出する日本のロックバンドの先駆となった。だが1973年にバンドは解散、ジョー山中はソロ歌手となる。

そんな彼に新たなチャンスが巡って来る。1977年、超大作映画『人間の証明』への出演を果たしたのだ。ジョーはNYの黒人街「ハーレム」から東京にやって来て何者かに殺されてしまうハーフ青年を演じた。映画のモチーフとなる重要な役で、彼の生い立ちを再現したかのようなまさにハマリ役であり、生涯の当たり役となった。同時に主題歌を熱唱し、これが英語の歌としては50万枚を超える異例の大ヒット。映画も大入りで一大ブームを巻き起こした。

ところが、この絶頂期に大麻取締法で逮捕され、しばらく芸能界を干されるという挫折を経験した。だが、彼のあふれる才能はその後も絶えることはなく、その後も武道館でのライブ、映画音楽、ロックミュージカルへの出演、映画やテレビドラマへの出演など活躍の場を広げた。音楽のジャンルも、ソウル、ファンク、AORと次々とスタイルを変えていった。‘70年代終わりにはジャマイカに渡って本格的にレゲエに取り組み、レゲエの神様・故ボブ・マーリィのバンドだったザ・ウェイラーズと活動を共にし、数枚のアルバムを残して日本のレゲエ界の第一人者になった。「ジョーの父はジャマイカ人」という噂が囁かれたのはこの頃だ。‘90年代にはボランティア活動も精力的に開始。この活動は生涯に渡るライフワークになった。そして2008年、フラワー・トラヴェリン・バンドが夢の復活。再び北米ツアーを行うなど大きな話題となった。しかしこの活動は長続きしなかった。2010年、ジョーに肺ガンが見つかり、やむなく闘病生活に入った。2011年3月、東日本大震災が起きた時には、病をおして内田裕也とともに被災者支援募金活動に従事し、しばし元気な姿をファンやマスコミに見せた。
だが、この年の8月、64歳でついにこの世を去った。37歳の妻と5人の子が残された。葬儀では弔辞を内田裕也が読んだ。何度も嗚咽を抑えながら8分以上に渡って悼んでいる。
デビッド・ボウイが最も興味のあるシンガーを『ジョー山中だ』と答えた英誌を読んだ時、興奮した。それまでの苦労が吹っ飛んだ」とジョーの才能と思い出を多く語った。ジョーの生い立ちにも触れ、「(ロックンローラーの)俺たちの中にはどこで生まれたとか、どこで育ったとか、何人(なにじん)だとか、そういう国境は本当になかったと思います。…海外ボランティアで、悲惨な戦場にも行った。そこでジョーは子供たちを前にアカペラで歌った。子供たちが国境を超えて手拍子で答えてくれました。決して忘れることのない、そのシーンで、僕はこの男と会ってよかったと、心から痛感いたしました」。
そして「もっと君を大切にすればよかった…」と最後に悔いた。

ジョーのいないフラワー・トラヴェリン・バンドは今も存続している。ジョーも目指した「国境も国籍も超越した世界」を音楽で表現し続けている。


以上
ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』より。
ジョー山中っていうとまず『人間の証明のテーマ曲』!っていうイメージですが、確かに彼の最高の持ち味である幅広い声域を活かした名曲でしたね。でも僕はフラワー・トラベリン・バンド在籍時の、あの「日本人離れ」したロックボーカル、完璧に近いシャウト唱法に痺れたもので、彼が俳優として映画に出るというのが、意外だったものです。それほどフラワー・トラベリンのインパクトは強かった。当時はまだ日本のロックといえば「グループサウンズに毛が生えた」程度のものが多かったが、フライドエッグ、沖縄の紫、クリエーションなど高度なテクニシャンが揃った本格的なバンドがようやく生まれだした時代で、フラワーは頭ひとつ抜き出ていた存在だった。「世界で通用する日本のバンド」はこの後、サディスティック・ミカ・バンドBOWWOWラウドネスなど次々と生まれますが、そのパイオニアであり、ミュージシャンの誰もが憧れたバンドだったと思う。
(「海外で活躍する日本人ミュージシャン」もご参考ください。
http://www.yunioshi.com/japanesemusician.html
この頃のジョーは内田裕也が惚れ込むほどのかなりなハンサムだった。苦労してようやくソロアーティスト、俳優としても活躍が期待された矢先に大麻所持で逮捕され、しばらく芸能界から干されてしまい、この時、僕は子供心に「もったいない!」って思ったもんでした。
復帰後はクリームのプロデューサーだったフェリックス・パパラルディと仕事をしたり、日本で第一人者といっていいほどのレゲエミュージシャンとなり、また内田裕也の推薦もあって俳優としても主演ではないが何本か映画に出演したが、『人間の証明』ほどの活躍には至らなかった。ジョーが亡くなった時の内田が弔辞で「もっと大切にしてやれば」と言ったのには、フラワー時代から知っている僕も大いに共感できる言葉で本当に残念でした。
なお、ジョーとスウェーデン人モデルとの間に生まれた娘・山中マイも芸能界に入り、モデルなどで活躍していたが、歌手を目指すようになったという。なるほど彼女も超美女で、しかも抜群の歌唱力ですね。父の遺志を継いで世界でがんばって欲しいものですね!
山中マイ





メイク・アップ

メイク・アップ

↑フラワートラベリンバンドの代表作といえば『SATORI』だろうが、僕は敢えてこちらを推薦します。
若い人にはなじみが薄いかもしれないが、この『MAKE UP』には本当にぶっ飛んだ。日本のバンドというのが信じられないほどの完成度だった。




参考資料:ジョー山中著:『証(あかし)―永遠のシャウト』(徳間書店

鳥井賀句監修:『ザ・ロッカーズ』日本ロック・バンド完全カタログ』(JICC出版局

映画『人間の証明』劇場パンフレット(角川春樹事務所)

ジョー山中公式サイト
http://www.joe-yamanaka.com/bio.html

フラワー・トラヴェリン・バンド公式サイト
http://www.flowertravellingband.com/jp/index.html

内田裕也オフィシャルサイト(ジョー山中葬儀)
http://www.uchidayuya.com/special/joe/index.html