世界で活躍するギタリスト、HOTEI

10月2日にNHK Eテレで放送された『亀田音楽専門学校』観ましたか?布袋寅泰がゲストで『キル・ビル』をスタジオ生演奏していました。いや〜格好いい!「世界のHOTEI」を実感しました。僕はあまり邦楽を聴かないのでBOØWY時代は実はあまり彼のことを知らなかったのですが、最近の彼の活躍ぶりには目を瞠るものがあります。今年の日本でのローリング・ストーンズのコンサートに飛び入りゲストで登場した時も大きな話題になりました。新作も出たことだし、今回の『ハーフマニア』完全版は布袋です!

渡辺孝行作↓


世界で活躍するギタリスト、HOTEI
布袋寅泰
(ほてい・ともやす 1962年2月1日〜)

1981年、ロックバンドBOØWY でメジャーデビュー。
身長187センチの圧倒的な存在感とシャープでフレキシブルなギターワークでカリスマ的人気を誇る。BOØWY 解散後はソロとして活動。ソロ以外にも吉川晃司とのユニットCOMPLEX、後に妻となった今井美樹らへの楽曲提供・プロデュース、映画音楽、俳優としても特異な世界を醸し出している。

寅泰が生まれたのは群馬県高崎市の田舎町。「布袋」は母方の苗字で、母はサハリン生まれで開拓民の子だった。12歳で終戦を迎え、命からがら北海道に引き揚げ、余市で育った。高校を出るとすぐに上京。そこで留学生の男と恋に落ち、二人は高崎に新居を構えた。寅泰が小学校中学年の時、家は北欧風の洋館に建て替えられ、リビングにはドイツ製のピアノ、庭には高級外車、お手伝いさんが何人も通うセレブな生活をしていた。その大豪邸の門には「布袋」と「柳井」の表札が。「柳井」は韓国人だった父の姓だった。父は貿易商なのか職業不詳だが、1 年の大半を海外に飛び回るような生活をしていた。常に一流品を好むダンディな男だった。そして非常に厳格な男で、父が久しぶりに帰って家族で食事となると一家に緊張感が走ったという。母はそれに反して気さくで社交的な人で高崎駅前でクラブを経営していた。クラブは繁盛してしばらく一家は裕福で幸せな暮らしを続けていた。
ギターに夢中になった中学生の頃のことだ。父が久しぶりに日本に帰っていたある夜、寅泰の友人が夜中の2時に遊びにやって来た。父が不在の時はいつものことだったが、父は激怒しその友人と睨み合いの状態になった。それを見た寅泰はついカッとなり、「てめえ俺の友達に何を言っているんだ!」と父に灰皿を投げつけてしまった。灰皿は父の額を直撃。初めて寅泰が父に反抗した瞬間であった。父は唖然として立ちすくみ、寅泰の顔をじっと見つめた。寅泰はいたたまれずその場から逃げ出ししばらく家出をした。これが父の顔を見た最後になった。
その後すぐに母から離婚することを告げられた。寅泰はてっきり自分のせいだと思ったのだがそうではなかった。父は韓国にも妻がおり、寅泰と同世代の息子や娘もいるというのだ。さらにショッキングな事実が判明。父には日本に莫大な借金があり、どういう訳か母がその返済に当たらねばならず、結局寅泰は母と妹と豪邸を出てアパート暮らしを強いられた。寅泰は怒りに震えた。父を憎んだ。この時、「日本一のギタリストになって母を楽にしてやりたい」と思ったという。
それから数年、BOØWYで大成功を収め、経済的にも安定した寅泰はその夢を果たした。母と妹を東京に呼び、新居で生活を始めた。その頃、一本の国際電話が彼の元にかかってくる。それは父の秘書からだった。父は重い糖尿病で失明の恐れがある。「光を失う前に寅泰と妹を一目見たい」という伝言だった。父を許さなかった寅泰は、「会いたい」という妹を説得して断った。
だが…。BOØWYのラストコンサートの日。チケットが無かった父は東京ドームの壁に耳を寄せて息子のギターの音を聞いていたという。父の死後それを父の秘書から聞いた寅泰は初めて悔いた。1999年、寅泰は出演した映画のキャンペーンで初めて韓国を訪れた。マネージャーが知らない韓国人から手紙を預かったという。ホテルの部屋で一人その手紙を広げて読んだ。それは父のもう一つの家族、韓国の異母兄弟からの手紙だった。この義弟の家庭は彼が3歳の時にすでに崩壊していたという。そしてその彼もまた父を憎んでいた。寅泰は勝手に父は韓国の家族と幸せに暮らしていると思い込んでいたのだが、事実は違ったのだ。手紙はさらに続く。父は寅泰を愛していた。寅泰のCDやビデオや新聞記事を集め、周囲の人たちに息子の活躍を誇らしく語っていたという。寅泰は涙が止まらなかった。父もまた孤独だったのだ…。子供の頃、「寅泰君。男なら七つの海を越えなさい」と言った父の言葉を生涯忘れることがないと寅泰は著書『秘密』で語っている。

寅泰は1996年にアトランタ五輪の閉会式セレモニーに出演。究極の夢だったデビッド・ボウイとの共演を果たすなど、世界のミュージシャンとのセッションやコンサートへの出演が相次ぐ。また韓国人役で出演もした『新・仁義なき戦い』のテーマ曲はクエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』の挿入歌として採用され、以来、世界中から高い評価を受け様々な場面で採用されるなど、国際的な活躍を続けている。父の言葉どおり布袋寅泰は七つの海を越えたのだ。2012年、妻子とともに若い頃からの憧れのロンドンに移住。現在はロンドンを活動の中心にしている。

以上『ハーフマニア』P144より。
主な参考書は自伝↓より

秘密

秘密

書いたとおり布袋の代表曲ともいえる『新・仁義なき戦い』のテーマ曲『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』は『キル・ビル』に採用されたため、そっちのテーマ曲と勘違いしている人が多く、『亀田音楽専門学校』では、外国でこれを演奏すると「キル・ビルのテーマのカバー良かったよ」と言われるそうだ。布袋のオリジナル曲であることすら知らない人がいるんだと語っていた。因みに交通事故で亡くなった芸人・桜塚やっくんもこの曲を出囃子に使ってましたねえ。(なお『キル・ビル』に使われたいきさつは本サイトの『キル・ビル』特集をごらんください)

まそれはともかく。韓国人の父の話は非常に感動しました。東京ドームの外で漏れ聞こえる息子のギターの音に耳を傾ける姿、皆さん想像できますか?息子に会いたい一心で日本にやってきた孤独な韓国人の老人。おそらく彼も過去に苛まれ、悔いでいっぱいだったのだろうと思うと何ともやり切れないです。
親子の愛憎物語がぎっしり詰まった『ハーフマニア』の中でもひときわこの父子の話は寂しいものでした。

話は変わるけど、布袋が前妻の山下久美子と別れて今井美樹と結婚したその辺りの話は今紹介した自伝『秘密』に書いてあるのだが、山下久美子の自伝と微妙に食い違っていて、ああ結婚って本当にムズカシイものだと分かりました…。
両方を読み比べてみて↓

ある愛の詩 (幻冬舎文庫)

ある愛の詩 (幻冬舎文庫)

布袋が在日韓国人の実業家を演じた↓は音楽だけでなく準主役の彼の演技も見ものでお薦めです。↓

新・仁義なき戦い。 [DVD]

新・仁義なき戦い。 [DVD]

最後に布袋の新作。イギー・ポップがゲスト参加!

New Beginnings

New Beginnings

『洋画・洋楽の中の変な日本・がんばる日本』の「世界で活躍する日本人音楽家」のコーナーもご参考ください。

マッサン 「国際結婚した有名人たち」より。

この間、スットコランドが大英帝国から独立するだの何なのと世界中の注目を浴びて、日本でも普段関係ない&分からないって人達に、「スットコランドとは?」みたいなニュース番組、ワイドショー中の解説とかで詳しくやっていましたが、明日のNHK朝ドラマで始まる『マッサン』はモロ、スットコランドが舞台のひとつで、NHK朝ドラ史上初めて、スットコランド出身女性つまり外国人ヒロインの作品だ。主演のマッサンは玉山鉄二。彼もこの作品で一躍年配の方々にも認知度が高まるでしょう!格好良いし演技はうまいし。(『ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』P163)


実在のモデルはニッカウヰスキー創業者とその妻です。
というわけで今回の『ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』から『国際結婚した有名人』P101で紹介した竹鶴政孝ジェシー・リタのお話を紹介します。


竹鶴政孝(1894 〜 1979)&ジェシー・リタ
竹鶴はニッカウヰスキー創業者で「ウィスキーの父」などと称される人物。国産のウィスキー製造を目指し、本場のスコッチを学びにスコットランドグラスゴー大学に留学した。そこで医学部の女子学生から「弟に柔道を教えて」という依頼を受ける。この女性の姉がリタであった。
二人は急速に接近しやがて結婚を誓う仲に。だが、まだ国際結婚には偏見がある時代。双方の家族ともに大反対で、教会で結婚式を挙げることすら出来なかった。1920年、竹鶴は留学を終えるとリタとともに帰国した。リタは日本人になろうと決意し、日本語や日本の文化を無我夢中で学んだ。そして献身的に夫に尽くした。戦争中は敵国出身ということもあり特に厳しい生活を強いられたが耐え抜いた。子供には恵まれなかったが、竹鶴の甥・威たけしを養子に貰い、実の子のように可愛がった。この威がニッカの二代目社長である。


以上。『ハーフマニア』ではほんの数行、サラリと流した感じの項でしたが、じっさいはトンデモナイ波乱の物語がありました。できればもうちょっと書きたいところでしたが、それはちゃんとした本がありますのでそちらをご参考ください。

国際結婚は日本では今でもかなりなハンデがありますが、竹鶴の時代はもっと激しい、差別や偏見ひどければイジメや虐待まであったはず。特に当時欧米人に「辺境の地」と看做された日本にはるばるやって来た花嫁の苦労は相当あったろう。それでもリタはがんばってマッサンに献身的に尽しました。その努力や波瀾万丈の物語はおおよそ想像できますが、それらはいろんな伝記にて明らかです。


あーもうドラマ始まる前に泣いてしまうわい。


あまちゃん』から『花子とアン」までNHK朝ドラ史上に残る高視聴率を誇った最近のシリーズの後番組だけに世間の期待が大変ですが、どこまで日本人の心をゆさぶってくれるものでしょうか?

余談ですが
僕は高校生のときに友人とニッカの宮城工場に見学に行ったことがあり、そこで竹鶴の伝記を知りました。その頃の国産ウイスキーといえばサントリーとニッカが主でしたが、ニッカといえばサントリーの数分の1の規模の「小会社」でした。竹鶴は本場スットコランドでスコッチ製法を学び、日本でサントリー(寿屋)からスカウトされてウヰスキー造りを伝授しています。つまり、竹鶴が日本の国産ウヰスキーの父でありますが、その後経営方針の違いから寿屋から別れニッカを創業します。以来「味のニッカ、売上げのサントリー」とずっと言われてましたね。今ライバルと称される会社が実は創業当時は一緒だったり枝分かれしたりというのは(例えばヤマハとカワイみたいに)、結構面白くて読むのですがこの2社は格別のような気がします。

で、僕はその工場の見学コースの最後の方で出来たてのウイスキーを試飲し(もちろん飲み放題だったのでしこたま飲んだ)、ニッカがいかに本格的なウヰスキーを作っているかを知って以来、すっかりニッカウヰスキーびいきになりました。
ともかく、マッサンのヒット、お祈りしています。

参考資料
ニッカ「日本のウイスキーの父 竹鶴政孝物語」
http://www.nikka.com/80th/story/index.html#story01


お詫びと訂正
ニッカを飲みながら書いたのでこの日記、間違いが続出してます。
(誤)スットコランド→スコットランド
申し訳ありませんでしたあ!!


あと
う〜ぷす!
高校生は酒飲んじゃダメだった!
上はデタラメです、嘘です、思い違いです。
だいたい高校生は酒蔵の見学コースに行くな。
ましてベロベロに酔っ払ったらダメだぞお。
良い子は20歳過ぎてからだぞ。

訃報・山口淑子 波乱の人生

歌手、女優、ジャーナリスト、政治家といくつもの肩書きを持っていた山口淑子が亡くなった。僕のサイト『「洋画・洋楽の中の変な日本・がんばる日本』でも世界で活躍する女優のページで紹介しています↓
http://www.yunioshi.com/japaneseinmovies2.html#Anchor330887

ハーフマニア 日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』では「偽ハーフ」(P93)のコーナーで紹介しています。以下はその文です。


山口淑子(1920 〜)
両親ともに日本人で中国で生まれる。戦前は中国娘「李香蘭(りこうらん、リシャンラン」の芸名で歌手として売り出し、戦後は山口淑子と名乗り日本映画に出演。またアメリカに渡ってシャーリー山口の芸名でも活躍した。後にアラファト議長へのインタビュー番組を手掛けるなどTV製作に手を広げて高い評価を得て、政治の世界へと転身した才女。ジャーナリストとしてパレスチナ問題に取り組み、ベイルートなどを何度か取材しているうちにパレスチナ人民戦線の幹部たちと仲良くなり、彼らからジャミーラ(美しい)と呼ばれるようになった。イサム・ノグチとの結婚でも知られる。この波瀾の人生は舞台化され、劇団四季のミュージカルにもされている。


以上。
日本人夫婦の間に中国で生まれた山口は、戦前は中国人、または日中のハーフというふれこみで、歌手デビュー。「夜来香」「蘇州夜曲」などが大ヒット、映画『支那の夜』なども興行記録を樹立し、満州国、中国、もちろん日本本土でも今日のアイドル的扱いをされ大スターになった。当時最高の劇場といわれた銀座の日劇公演では日劇のまわりを七回り半の行列ができたという伝説になっている。

東洋のマタハリと呼ばれた川島芳子(『ハーフマニア』の同じく偽ハーフのコーナー、P96)とも交流があったと生前語っていましたが、太平洋戦争が終わると日本に加担した(漢奸つまり裏切り者)中国人として捕らえられ、川島同様に処刑されるところを間一髪で日本人であることが証明されて帰国したという。

戦後は山口淑子として女優に復帰、黒澤明監督の『醜聞』で三船敏郎と共演するなど活躍した。日本語・中国語・英語が話せたのでハリウッドでも注目を浴びて『東京暗黒街竹の家』『東は東』『Navywife(Mother sir)』などハリウッド映画に主演。またブロードウエイミュージカル『シャングリア』、TVドラマ『津波』、人気バラエティ番組のエドサリヴァン・ショーへの出演も果たし、アメリカでもよく知られる存在になった。中国復帰前の香港映画にも何本か出演してしていて香港、台湾でもスターだった。

日米ハーフで世界的に知られた芸術家イサム・ノグチ(『ハーフマニア』P187・イサム・ノグチ)と結婚し話題を呼んだが、これは数年で破局し離婚。後に山口は日本の外交官と再婚した。


テレビの主婦向けワイドショーの司会者に抜擢された時は、「国際的女優」の顔を活かして「主婦向け」なんかじゃなく国際政治的に問題の多い地域を精力的に飛び回って取材をして、当時の皆を驚かせた。何しろ北朝鮮や中東といった、当時としては並みのジャーナリストではとても出来ないような取材旅行をしてのけた。あの重信房子にもインタビューをしているのだ。だからパレスチナからも尊敬されて「ジャミーラ」の名前を貰っている。

それから政治家への華麗な変身。自民党参議院議員としていろいろな役職をこなした。女性議員としてもかなり有能だった。
…それにしても大変な才能と情熱の持ち主だと思いませんか?
日・米・中、中東のどこの国からも敬われる日本人って彼女以外にこれから現れるのでしょうか?
本当に世界に誇れる日本人の一人だったと思います。

94歳。大往生といえるかもしれません。合掌。



参考資料は以下。自伝を読むと、5人分の人生が味わえる!これが同じ人???って。
舞台にもなっているが、もはや大河ドラマか朝ドラ。いつかNHKで映像化されるだろう。

李香蘭 私の半生 (新潮文庫)

李香蘭 私の半生 (新潮文庫)

「李香蘭」を生きて (私の履歴書)

「李香蘭」を生きて (私の履歴書)

↓これは『ハーフマニア』の出版社、社会評論社の発行。
李香蘭というよりも筆者の満州国での体験が赤裸々に語られている。
[rakuten:guruguru2:11518366:detail]


世界のクロサワの作品だが、ちょっと地味な映画。
ただ、今日のマスコミの有りかたのようなものを予言したような感じで
う〜んと考えさせられる。この映画に登場する山口はいやらしい言い方をすると
とても「油がのった実にいい女」だ!↓

男気のあるサバイバル女優?土屋アンナ

8月の23、24日と2夜に渡ってテレビ朝日系で放送された『よゐこ無人島0円生活』、皆さんご覧になりましたか?芸人よゐことLilicoと土屋アンナという2大ハーフ?が無人島でサバイバル生活対決!というこの企画、どこまで本当なのか疑問ですが、結構マジで危険なことをやっていました。
http://www.tv-asahi.co.jp/mujintou

Lilicoと土屋アンナは実生活でも親友だそうで、大分前になりますが『ウチくる!?』という番組でもこのふたりの仲良しぶりは紹介されていました。それにしてもこの超強力キャラの二人なら人類が滅亡しても生き残りそうな感じですなあ。二人ともかなりハードな人生を送っているので。
Lilico(ポジティブ女王LiLIcoの巻 - yunioshiの日記
というわけで今回は土屋アンナです。
花木マロン作↓


デキ婚元旦那が心不全で急死!波乱万丈シンガー&アクトレス

土屋アンナ(つちや・あんな 1984年3月11日 〜)

父はポーランドアイルランドの血を引くアメリカ人。
母・土屋眞弓はアンナも所属するモデルエージェンシーの代表を務める。姉アンジェリカがいる。アンナが小学校3年生の時、両親が離婚。父は家を出て行った。父のことが好きで好きでしょうがなかったのでショックだったと自著でアンナは述べている。小学生時代は友達に父がいないことを隠し、父の自慢話ばかりしていたという。ハーフということでイジメにあい、友達から「パシリ」をやらされたが、その頃はイジメとは思わず単にやさしさでやっていた。フィギュアスケートやバレーボール、バスケやハンドボールなどスポーツが得意な活発な女の子だった。
14 歳の時、モデルをしていた姉の影響でモデルを始め、雑誌『Seventeen』でデビュー。すぐに専属モデルとしてカリスマ的な人気を呼び、トップモデルとして活躍した。
2004年、『茶の味』で映画デビュー。同年には『下妻物語』で深田恭子とのダブル主演に抜擢され、田舎のヤンキー娘白百合イチゴを熱演。高い評価を得てその年の映画賞の新人賞を総ナメにした。この映画で一気に知名度を上げたアンナは女優として開花、数々の映画に出演。2005年には『バッシュメント』、2007年の『さくらん』でも主演。『さくらん』では何と江戸時代の花魁を演じている。
2005年からはロックシンガーとしても活躍。
私生活ではモデル仲間のジョシュア(日本人とブラジル人のハーフ)と「デキ婚」をし、愛息澄海(スカイ)も生まれるがわずか2年で離婚。その後ジョシュアは2008年に心不全で亡くなるという不幸もあった。
すでに再婚し二人目の子がいるアンナは、結婚や子育てに対してまっすぐでしっかりとした信念を持っていて、何冊かの自伝やフォトエッセイなどでその考えを述べている。アメリカCNN の『Talkasia』のインタビューには「ハーフに生まれたことをいいことだと思う。日本の文化・アメリカの文化を両方持ってることは他の人にはできない経験だから」などと語るアンナ。ストレートで、ピュア。ナチュラルな生き方・考え方は多くの女性ファンの心を掴んでいるようだ。

以上『ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』より。



一番の参考書は土屋アンナ本人の著
[rakuten:guruguru2:11629919:detail]
↑この本は2005年暮に出版されたもので、息子スカイが生まれたばかり、最初の夫故ジョシュアとも仲の良い時代に書かれたもの。夫や愛息との写真も盛り沢山なので、その後の展開を考えるとちょっと痛ましい気もする。ただ、アンナ本人の生い立ちや家族のことを赤裸々に寄せていて僕のようなおっさんでも非常に共感が持てる一冊でした。



モデル・女優というと女神のようにひたすらきれいで「生活感」のようなものがあまり感じられない人が多いような気がしますが、まったくそんな風でなく、彼女の他の著作を読むと、子育て本や料理本みたいなものから人生訓まであって、人情味にあふれ、とても真っ直ぐ・男気?のある人のようです。それが若い女性に人気のある証しですね。

2013年にアンナは舞台『誓い〜奇跡のシンガー』で主演を務める予定だったが稽古に参加せず、舞台中止になるという事態に陥った。脚本演出を巡って原作者と主催者・演出家とアンナ側の主張は皆マチマチだったためアンナが納得できず降りたとのことだが、訴訟になり今だ解決に至っていないようだ。まあ、あのアンナのことだから心配はいらんでしょう。


女優としては2004年に出演したこの2本。
↓こちらは主演ではないが強烈な印象を残した。
茶の味 グッドテイスト・エディション [DVD]
浅野忠信2014-03-23 - yunioshiの日記)が主役



↓何と言ってもこちらのアンナは他の女優が考えられないほどハマリ役。

下妻物語 スタンダード・エディション [DVD]

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まだ観ていない人はぜひ!イチゴの頭突き最高っす!

3オクターブの声域を持つ世界的ロックシンガー

今回は松田優作に続き『人間の証明』つながりでジョー山中です。

花木マロン作



ジョー山中(ジョーやまなか、本名:山中明 1946年9月2日 - 2011年8月7日)

横浜生まれ。自伝『証(あかし)―永遠のシャウト』の中で「本当の父親は顔も名前も知らない。日本に進駐していたアメリカ軍の兵隊だったらしい」と、アフリカ系アメリカ人の米兵と日本人女性との間に生まれたことを明かしている。

7人兄弟の中で唯一のハーフだった。小学生の時母が他界。また火事で家を失い、ジョーは神奈川県内の養護施設を転々として育った。少年時代は差別と戦い喧嘩三昧の毎日。その腕っぷしの強さを聞いた金平ジムからスカウトされて、プロボクサーとしてデビュー。だが、これも長続きせず、すぐに引退。シンガーを目指し、いくつかのバンドを経て1966年、グループサウンズ(GS)ブームの中、491(フォー・ナイン・エース)のボーカル「城アキラ」としてデビューした。1968年、内田裕也率いるフラワーズのライブ会場で、観客として来ていたジョーのルックスに内田が一目惚れ。内田の強い勧めでバンドに加入。こうして3オクターブもの驚異の音域と、ハーフならではの抜群のリズム感とパワーを持ったジョー山中の才能が一気に開花。バンドは本格的なロックバンド、フラワー・トラヴェリン・バンドに昇華した。バンドは1970年にカナダに渡り、長期に渡るツアーで人気をものにした。北米でリリースしたアルバム『SATORI』はカナダのヒットチャート1位を獲得。ジョーの卓越したボーカルとテクニシャン揃いのミュージシャンが奏でる、ダイナミックかつ日本テイストを加味した繊細な作風が「ロックの本場」のリスナーたちを唸らせた。世界に進出する日本のロックバンドの先駆となった。だが1973年にバンドは解散、ジョー山中はソロ歌手となる。

そんな彼に新たなチャンスが巡って来る。1977年、超大作映画『人間の証明』への出演を果たしたのだ。ジョーはNYの黒人街「ハーレム」から東京にやって来て何者かに殺されてしまうハーフ青年を演じた。映画のモチーフとなる重要な役で、彼の生い立ちを再現したかのようなまさにハマリ役であり、生涯の当たり役となった。同時に主題歌を熱唱し、これが英語の歌としては50万枚を超える異例の大ヒット。映画も大入りで一大ブームを巻き起こした。

ところが、この絶頂期に大麻取締法で逮捕され、しばらく芸能界を干されるという挫折を経験した。だが、彼のあふれる才能はその後も絶えることはなく、その後も武道館でのライブ、映画音楽、ロックミュージカルへの出演、映画やテレビドラマへの出演など活躍の場を広げた。音楽のジャンルも、ソウル、ファンク、AORと次々とスタイルを変えていった。‘70年代終わりにはジャマイカに渡って本格的にレゲエに取り組み、レゲエの神様・故ボブ・マーリィのバンドだったザ・ウェイラーズと活動を共にし、数枚のアルバムを残して日本のレゲエ界の第一人者になった。「ジョーの父はジャマイカ人」という噂が囁かれたのはこの頃だ。‘90年代にはボランティア活動も精力的に開始。この活動は生涯に渡るライフワークになった。そして2008年、フラワー・トラヴェリン・バンドが夢の復活。再び北米ツアーを行うなど大きな話題となった。しかしこの活動は長続きしなかった。2010年、ジョーに肺ガンが見つかり、やむなく闘病生活に入った。2011年3月、東日本大震災が起きた時には、病をおして内田裕也とともに被災者支援募金活動に従事し、しばし元気な姿をファンやマスコミに見せた。
だが、この年の8月、64歳でついにこの世を去った。37歳の妻と5人の子が残された。葬儀では弔辞を内田裕也が読んだ。何度も嗚咽を抑えながら8分以上に渡って悼んでいる。
デビッド・ボウイが最も興味のあるシンガーを『ジョー山中だ』と答えた英誌を読んだ時、興奮した。それまでの苦労が吹っ飛んだ」とジョーの才能と思い出を多く語った。ジョーの生い立ちにも触れ、「(ロックンローラーの)俺たちの中にはどこで生まれたとか、どこで育ったとか、何人(なにじん)だとか、そういう国境は本当になかったと思います。…海外ボランティアで、悲惨な戦場にも行った。そこでジョーは子供たちを前にアカペラで歌った。子供たちが国境を超えて手拍子で答えてくれました。決して忘れることのない、そのシーンで、僕はこの男と会ってよかったと、心から痛感いたしました」。
そして「もっと君を大切にすればよかった…」と最後に悔いた。

ジョーのいないフラワー・トラヴェリン・バンドは今も存続している。ジョーも目指した「国境も国籍も超越した世界」を音楽で表現し続けている。


以上
ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』より。
ジョー山中っていうとまず『人間の証明のテーマ曲』!っていうイメージですが、確かに彼の最高の持ち味である幅広い声域を活かした名曲でしたね。でも僕はフラワー・トラベリン・バンド在籍時の、あの「日本人離れ」したロックボーカル、完璧に近いシャウト唱法に痺れたもので、彼が俳優として映画に出るというのが、意外だったものです。それほどフラワー・トラベリンのインパクトは強かった。当時はまだ日本のロックといえば「グループサウンズに毛が生えた」程度のものが多かったが、フライドエッグ、沖縄の紫、クリエーションなど高度なテクニシャンが揃った本格的なバンドがようやく生まれだした時代で、フラワーは頭ひとつ抜き出ていた存在だった。「世界で通用する日本のバンド」はこの後、サディスティック・ミカ・バンドBOWWOWラウドネスなど次々と生まれますが、そのパイオニアであり、ミュージシャンの誰もが憧れたバンドだったと思う。
(「海外で活躍する日本人ミュージシャン」もご参考ください。
http://www.yunioshi.com/japanesemusician.html
この頃のジョーは内田裕也が惚れ込むほどのかなりなハンサムだった。苦労してようやくソロアーティスト、俳優としても活躍が期待された矢先に大麻所持で逮捕され、しばらく芸能界から干されてしまい、この時、僕は子供心に「もったいない!」って思ったもんでした。
復帰後はクリームのプロデューサーだったフェリックス・パパラルディと仕事をしたり、日本で第一人者といっていいほどのレゲエミュージシャンとなり、また内田裕也の推薦もあって俳優としても主演ではないが何本か映画に出演したが、『人間の証明』ほどの活躍には至らなかった。ジョーが亡くなった時の内田が弔辞で「もっと大切にしてやれば」と言ったのには、フラワー時代から知っている僕も大いに共感できる言葉で本当に残念でした。
なお、ジョーとスウェーデン人モデルとの間に生まれた娘・山中マイも芸能界に入り、モデルなどで活躍していたが、歌手を目指すようになったという。なるほど彼女も超美女で、しかも抜群の歌唱力ですね。父の遺志を継いで世界でがんばって欲しいものですね!
山中マイ





メイク・アップ

メイク・アップ

↑フラワートラベリンバンドの代表作といえば『SATORI』だろうが、僕は敢えてこちらを推薦します。
若い人にはなじみが薄いかもしれないが、この『MAKE UP』には本当にぶっ飛んだ。日本のバンドというのが信じられないほどの完成度だった。




参考資料:ジョー山中著:『証(あかし)―永遠のシャウト』(徳間書店

鳥井賀句監修:『ザ・ロッカーズ』日本ロック・バンド完全カタログ』(JICC出版局

映画『人間の証明』劇場パンフレット(角川春樹事務所)

ジョー山中公式サイト
http://www.joe-yamanaka.com/bio.html

フラワー・トラヴェリン・バンド公式サイト
http://www.flowertravellingband.com/jp/index.html

内田裕也オフィシャルサイト(ジョー山中葬儀)
http://www.uchidayuya.com/special/joe/index.html

蘇えれ!松田優作!

ちょっと前になりますが14日のNHKBSプレミアムで映画『人間の証明』が放送されていたので、何年かぶりで観ました。『ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』に登場する松田優作が主役で、ジョー山中が出番は少ないが準主役といった重要な役どころと主題歌を担当している。僕が最初にロードショーで観たのは高校生の頃(いまだに当時の劇場パンフレットを持っている)で、その後僕が業界に入ってからこの映画のプロデューサーだった人と仕事を共にすることになって、この映画の裏話みたいなのをいくつか聞いたことがあったので、ちょっと思い入れがある映画なのだ。

今回改めて観ると、スケールは大きいし、いい役者がゾロゾロ登場して見どころはたっぷりな反面、詰め込みすぎてやや粗い部分も見受けられました。肝心の松田優作はまだ大スターへの道を歩み始めたばかりなので、ファンにとっては彼のアクションも演技も物足りない感じがします。というわけで今回は松田優作であります。


丹野雅紀作


ハリウッド進出一作でこの世を去った不世出な天才俳優
松田優作

まつだ・ゆうさく
(1949 年9月21日〜 1989年11月6日)

母が在日朝鮮人
誕生日は1949年9月21日と書いたが、母が出生届けを出したのは1952年8月。しかも1950 年生まれと1年遅く偽って届けている。これは優作が学校に上がった時、同級生よりも体が大きく知恵も上で有利になるだろうという母なりの計算があった。母は在日コリアンで金(キム)かね子という。夫も在日で松田武雄と日本人姓を名乗り、日本兵として応召され1943 年にニューギニアで戦死している。つまり、優作は武雄の子ではない。優作の父はかね子のところに出入りしていた長崎の大村という日本人である。
戦後、未亡人となったかね子は、山口県下関市闇市の品物を売りさばく行商などをしていた。「かなり際どい」仕事もせざるを得なかった。残された二人の息子を育てるために必死だった。戦後4年を経て質屋を始めた頃、保護司(前科者を更生させる仕事)としてこの町にやって来た大村と知り合った。大村は180センチ近い大男で、かね子は大村に夢中になった。やがて同棲、優作を身籠った。しかし、かね子が妊娠したことを告げると大村は動揺し姿を消した。かね子が調べると大村には妻子がいることが分かった。結局、かね子は大村と別れ、優作は私生児としてこの世に生を受けた。こうして優作は二人の異父兄とともに下関の遊郭街で母の手ひとつで育てられた。自宅の一部は夜の女たちの「仕事場所」。隣はヤクザの一家だった。暴力と淫猥と差別が日常茶飯事に闊歩するこの環境が優作に与えた影響は計り知れない。母は、優作が生い立ちや国籍のことで引け目を感じないようにとの親心で出生届を偽ったのだった。兄たちは、母が優作を特別にかわいがり、また厳しく躾けていたという印象があると後に語っている。優作は10歳になるまで自分の出生の秘密を知らなかった。

しかし、「生まれて来ない方が良かったんじゃないかってネ」(雑誌『With』インタビュー)とその頃の気持ちを後に述べている。小学生の時から家を出たくて仕方が無かった。友達にコリアンだと知られたくなかった。優作は成長するとアメリカで国際結婚した叔母を頼り米国留学を1年経験、その後は上京して関東学院大学に通った。しかしこの頃すでに彼の夢は映画スターになること。スターになって皆を見返してやりたい。そんな思いがあった。やがて名門劇団・文学座の試験に通り、大学は中退し文学座研究生となった。何事にもまっすぐで妥協を許さぬ彼の努力はここで大きく実った。1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事として異例の抜擢を受けた。身長185センチの体をフルに活かした優作の「走り」や切れの良いアクションは、これまでの刑事ドラマに見慣れていた視聴者の度胆を抜き、一躍脚光を浴びる。とりわけジーパン刑事が殉職するエピソードは今なおテレビ史上の名シーンとして語り草となっているが、その時アドリブで放った「なんじゃあ、こりゃあ!」と言う台詞は故郷の山口弁である。

この頃、優作は当時の妻・松田美智子のコネを使って日本国籍を取得した。帰化する動機を綴った懇願書には
「『太陽にほえろ!』の視聴者はお年よりから子供まで幅広く、家族で楽しめる番組です。現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」
優作はこんなことを考えていたのか…。美智子は泣き出しそうになったと後に著書『越境者 松田優作』に書いている。在日コリアンでいることがこんなにも彼の心に重く…。

優作は常にストイックな姿勢で仕事に向かった。どの映画、どのテレビ番組にも真剣に取り組んだ。細部まで全く手を抜かない迫真の演技。酒の席でも仲間や監督たちと本気で芸術論、演劇論を闘わせた。喧嘩っ早く暴力沙汰までエスカレートすることも多かった。アクション俳優として主役を張る人気ぶりだったが、1983年に出演した森田芳光監督の『家族ゲーム』での感情を押し殺した斬新な演技が高い評価を得て、演技派への転進に成功した。この映画で優作は念願のキネ旬主演男優賞を受賞。この知らせを受けて本人より喜んだのは母・かね子であった。だが、その直後にかね子が倒れた。何年も会っていなかった母に優作は下関の病院で再会した。すでに意識は無かったが、優作は母の手を握り「母ちゃん!」と叫んだ。母はその声に反応し強く握り返したという。だが必死の願いも空しくかね子はこの世を去った。

そして1988年、優作はハリウッド映画『ブラック・レイン』の佐藤役のオーディションを受けた。このオーディションには一流スターから無名俳優まで200人も応募したと言われるが、製作者兼主演のマイケル・ダグラス、監督ら、主要スタッフが全員一致の意見で優作に即決した。
しかし…優作の体はすでに癌に侵されていた。優作はそれを極秘にし、激痛をこらえて撮影に臨んだ。苦しく辛かっただろうが、それを全く周囲に感じさせなかった。映画は完成した。優作の正に命をかけた迫真の演技は世界の映画ファンを唸らせ、映画は日米で大ヒットを記録する。すでにハリウッドからはロバート・デ・ニーロとの共演作のオファーも来ていた。だが、優作はその期待に応えることは出来なかった。再婚した妻・美由紀らが見守る中、この世を去った。満40歳。息を引き取る寸前、彼の目から一筋の涙が流れたという。優作の墓にはただひとこと「無」と刻まれているが、優作が残した二人の息子、龍平・翔太は父が果たせなかった夢を継ぎ、現在俳優として活躍している。決して「無」ではなかった。


以上『ハーフマニア』より。
彼の存命中は在日コリアンであったことは一切伏せられていた。今回、優作の資料をいろいろ読んでみて、一番参考にしたのは次の3冊である。

大下英治著:『蘇える松田優作』(廣済堂文庫)
山口猛著:『松田優作 炎 静かに (知恵の森文庫)』(教養文庫・知恵の森文庫)
松田美智子著:『越境者 松田優作 (新潮文庫)』(新潮文庫
それぞれ大変な労力を費やした名著で、俳優・松田優作を知る上では欠かせない貴重な作品です。この3冊あればほぼ優作の全貌がわかるといっても過言ではないでしょう。
大下英治は有名なルポライターで優作の周囲の人々に具に取材し、彼の生い立ちから死までを見事に纏めているが、肝心のコリアンであったことには触れられていない。山口猛は優作と深い親交があったライターで、映画製作現場での優作と人なりをこれもキチンと書き綴った力作ではあるが、やはり優作の生まれについては「家庭環境は複雑だった」ことしか書かれていない。だが、優作の前妻だった美智子は、優作の苦悩を目の当たりにしているから、彼の出自をはっきりと示している。優作の生い立ちの詳細や数々のエピソード、優作の心の奥底までかなり踏み込んだ緻密な姿が描かれている。松田優作が何故あれほどまでにストイックに仕事に打ち込んでいたのか、ようやく理解できて、この本には本当に心揺さぶられました。因みに『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(朴一著)でも優作のことが紹介されていますが、ほぼこの『越境者 松田優作』を基に書かれています。

さて、余談ですが『ブラックレイン』の佐藤役のオーディションには200人が集まったと書きましたが、結局4人の俳優に絞られました。その4人とは、優作、萩原建一、根津甚八小林薫だったそうです。優作は『太陽にほえろ!』の先輩だった萩原を常に意識しており、彼に勝って役を得たことを非常に喜んだとのこと。それであの迫真の演技。「アカデミー賞候補」との声もあった。試写を終えた高倉健は「これからは松田優作の時代だな」と周囲に言ったそうですが、それは残念ながら実現しなかった。優作は本当に悔しかったろうと思います。僕らファンも惜しくてたまりません。もしあのまま彼が生き延びていたら、渡辺謙真田広之浅野忠信を遥かに超えたハリウッドスターになっていたはず…。
息子の龍平、翔太は順調にいい役者に育っているので、その夢をどうかつないで欲しいものですねえ。

というわけで次回はジョー山中

観るべき映画
人間の証明 [DVD]
↑当時の優作は英語の台詞を言うのに精一杯で、思うような演技が出来なかった。共演のジョージ・ケネディが「彼は本当に日本で有名なのか?ワンパターンな演技しかできないじゃないか」とロケ現場で言ったそうだ。作品のテーマが『ハーフマニア』に通じるところもあるし他にもいろいろエピソードがあるのでまた別の機会に詳しく書きますね。


家族ゲーム [DVD]
↑「豊島園なら一番で入れますよ」の台詞には大笑いした。この映画についても語り始めたらキリが無いのでまた別の機会に。


ブラック・レイン デジタル・リマスター版 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
↑これもまだまだ書きたいことがたくさんある。↓こちらも多少ご参考に。
外国映画に描かれた日本とは?日本が主役編
ひとつだけエピソード。
リドリー・スコット監督は優作に「この映画は殴ったり殴られたりのアクションがある。あなたに出来ますか?」と尋ねた。『遊戯シリーズ』での優作のアクションを見ていたのにである。まず監督が優作の演技の素晴らしさを買ってくれたことの証しであり、その時の優作は本当にうれしそうだったと前妻・美智子が証言している。
最後に余談もうひとつ。美智子は1989年11月6日の朝、愛用の腕時計が止まっているのに気が付いた。電池交換したばかりで時計屋に持っていったが原因不明。それは優作が死んだまさにその朝のことだった…(『蘇える松田優作』より)

祝!オールスター初登板ダルビッシュ!

7月15日(日本時間今日16日)、ダルビッシュメジャーリーグの第85回オールスターゲームア・リーグの3番手として三回から登板し、1回無安打1奪三振という成績を残した。意外だったのだが、新人から3年連続でオールスターに選出されたのは、長いメジャーの歴史でもたった4人しかいないそうだ。彼ほどの投手でもこれまで登板が無かったのというのもちょっとびっくりだが、さすが実力者・人気者揃いのメジャーだけあって当然なのかもしれない。とにかく今年は素晴らしいピッチングで新たな伝説を残すことになった。
というわけで今回の『ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』完全版はダルビッシュ有です。

↑渡辺孝行作



アメリカ留学中にサッカーに熱中していたイラン人の父親

ダルビッシュ有
ダルビッシュ・ゆう Yu Darvish 1986年8月16日〜)

父親はイラン人・ダルビッシュ・セファット・ファルサ。母・郁代は大阪出身。ファルサは1960年イランの首都テヘラン生まれ。
当時のイランは親米派パフラヴィー朝時代。ファルサの父親は旅行代理店を営んでおり、その立場を利用して、息子のファルサをアメリカのマサチューセッツ州の高校に留学させた。ファルサはフロリダ州のタンパにあるエッカードカレッジに進学、サッカーとモトクロスに打ち込んだ。そこに留学してきた日本人女性・郁代と知りあった。


1986年、二人は結婚、大阪・羽曳野市で父が英会話教室を営み、そこで有は生まれた。弟が2人いて、末弟のKENTAは俳優になっている。幼い頃は家の中の会話は英語。だが、一歩家を出ると土地柄か血気盛んな河内弁だった。父はサッカー選手だったが、有が最初に選んだスポーツはサッカーでも野球でもなくアイスホッケーだった。小3から急激に身長が伸び、かなりの期待をされたが、小4の時から野球に専念した。もともと負けず嫌いのダルビッシュはこの頃から相手の打者に闘志をむき出しにしたという。

この頃、同級生に「ガイジン」とからかわれ、取っ組み合いのケンカになった。有はその頃からすでに人一倍大きかったので、先生まで相手を庇ったという。父はそんな有を決して甘やかさなかった。父は有の所属する野球チームのトレーナーになった。すでに小学生離れした球を投げた有を「このままでは天狗になる」と、父はライバルになる子をわざわざチームに入れて二人を競わせたという。
だが、「何故自分の父は日本人じゃないのか!」と母に食ってかかったことも何度かあった。中学生になった有は父がグラウンドにいることを恥じ、当時の監督に父を辞めさせるように頼んだ。監督は有にビンタを浴びせ、「お父さんが慣れない国でどれだけ苦労したか分からないのか!」と一喝した。この熱血監督に有は絶対の信頼を寄せ、才能をグングン伸ばしていく。そしてどんな苦境に陥っても決して挫けない不屈の精神力もこの時期に身につけた。


有は中3ですでに190cmを超える身長があり、140kmの速球を投げた。そればかりか数種類の変化球をマスターしていた。日本代表に選ばれ、アメリカで開催された世界大会で3位という成績を残した。50を超える高校からスカウトされたが、有はその中から仙台の東北高校を選んだ。高校時代も圧倒的な成績を残し、3年間で4度の甲子園出場を果たした。3年の春の選抜大会ではノーヒットノーランも記録、計7勝をあげ全国にその名を轟かせた。

この高校時代、ヤンチャでも知られる有は喫煙しているところを週刊誌に撮られ厳重注意を受けた。
そしてドラフトで交渉権を得た日本ハムには、父同席のもと、契約金1億、年俸1,500万、出来高5,000万円という破格の金額で入団。だが入団直後(まだ未成年)もパチンコ屋で煙草を吸っているところを撮られ謹慎処分になる。日本中からバッシングを受けた。しかし野球の成績は別だ。日本ハムでは開幕投手を務め、2006年には日本シリーズ2試合に登板し日本ハムの44年ぶりの日本一に貢献した。日本ハム時代は7年間で通算奪三振1259、防御率1.99という驚異の数字をあげ、沢村賞、MVPなど受賞多数。北京オリンピック、WBCでも全日本のエースとして大活躍した。


2012年、子供の頃からの夢だった大リーグテキサス・レンジャーズに6年総額6,000万ドルという超高額契約を結び入団。メジャーデビューした4月にはもう4勝をあげ、リーグ月間最優秀新人賞を受賞するなど期待通りの快進撃を続けている。雑誌でセミヌードを披露したり、タレントの紗栄子と結婚し2児をもうけるも4年ほどで離婚するなど「お騒がせ」者の一面もあるが、レンジャーズへの移籍が決まった時に日本ハムの本拠地・札幌ドームで1万人のファンを前に行った記者会見では、「日本のバッターたちから試合前からもう無理とか、打てないとか、そういう話が冗談でも聞こえてきた」とし、ダルビッシュを倒したいという気持ちはないのか、僕は勝負がしたい!(だからメジャーに行くんだ)」と、これぞダルビッシュ!という強い思いを表明した。厳しいイラン人の父のスポ根ドラマのようなスパルタ教育と大阪・羽曳野で育まれた強気でストレートな性格が有の最大の魅力であり、武器だ。

レンジャーズでは2012年のシーズンに16勝221奪三振を記録。2013年のシーズン初頭には何と9回2死まで「完全試合」という偉業を成し遂げた。日本球史に残る、いや、メジャー史に残る大投手になるのは間違いない。



以上『ハーフマニア』より。
この『ハーフマニア』執筆後のメジャーでの成績も抜群で、最多奪三振記録も残し、「あと一歩で完全試合」みたいな試合も何度かある。怪我に気をつけてもう少し安定したピッチングが出来れば、本当にメジャー史に残る大投手になるだろう。あれだけ期待された松坂が怪我で途中からしょぼくなってしまったという例もなるので。

とにかく彼は、父から受け継いだ運動神経と体格、負けじ魂が最高の魅力で、あの一本気で強気のピッチングはもちろん、長身のイケメンぶりがカッコイイ。メジャーの試合を見ていても他の選手と比べても見栄えが格別に良くって惚れ惚れする。と僕は思うんだが。


最後になりますが、イラン人の父とイランについて『ハーフマニア』では書いていないことがあります。イランはパーレビ国王による王政時代は親米であり、アメリカの協力を得て「近代化政策」を推し進めていました。父ファルサが生まれたのはこのパーレビ時代であり、彼がアメリカへ留学できたのはそうした事情がありました。ところが1979年にホメイニ師を指導者とするイラン革命が勃発し、王朝が倒されて厳格なイスラム原理主義国家となってからは、英米と対立、国際的にも孤立化しました。ファルサが郁代を頼って来日することになるのは、母国に帰れなくなったといった事情もあるようです。もちろん、郁代への熱烈な愛もあったでしょうが。


ホメイニ師死去後のイランは不安定な状況がなお続き、イラクとの戦争、イスラエルとの紛争、核開発問題など次々起こり、まだまだ解決できてないどころか、イスラム教徒同志の激しい対立と産油国間の駆け引きも絡んで世界中を巻き込む大問題に発展している。特に最近のISISを巡る近隣諸国と欧米諸国の関係をみると現在の世界はかなり危険な状態といえるのでは。ダルビッシュアメリカでの活躍を見てそんなことを考えさせられました。


参考資料
週刊文春』(2012年5月3・10日号)


↓一番詳しい評伝。両親の出会いなどが書かれている。


↓中学時代の恩師の本

猛将の教え 私が知る素顔のダルビッシュ有

猛将の教え 私が知る素顔のダルビッシュ有


↓彼自身は何の宗教を信じてるのかわからん。
十字架を背負っているのだろうか?

ダルビッシュの背負う十字架

ダルビッシュの背負う十字架


↓メジャーでもライバルになるマー君との関係など
佐藤義則 一流の育て方 ダルビッシュ有 田中将大との1600日



Iconic ace Darvish pushes Japan's boundaries