『革命の子どもたち』重信メイ

7月5日にドキュメンタリー映画『革命の子どもたち』が公開されました。
公式サイト↓
映画『革命の子どもたち』公式サイト

日本赤軍の活動家・重信房子とその娘メイらの熾烈な人生を描いたものです。これに対応してか今発売中の週刊文春(7月10号)の『阿川佐和子のこの人に会いたい』はその重信メイをゲストに、彼女の極めて波瀾に富んだ半生が披露されていて、改めて衝撃を受けました。
というわけで今回の『ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』は重信メイです。



川上麻衣子作↓

アラブの英雄?テロリスト?重信房子の娘
重信メイ
(しげのぶ・めい 1973年3月1日 〜)

父がパレスチナ

パレスチナ問題など中東情勢を専門とするジャーナリスト。
メイは漢字では「命」と書く。革命の命である。母は左翼運動家・日本赤軍の元リーダー重信房子。房子は明大在学中に学生運動に関わり、極左組織の赤軍派の創立メンバーとなる。後に連合赤軍を結成するメンバーと意見が対立、1971 年同志・奥平剛士らとともにパレスチナに活動の場を移し「日本赤軍」を結成。パレスチナ解放人民戦線などイスラム系過激派組織と連携し、「パレスチナ民族の解放・土地奪還」「対イスラエル」の名目でハイジャックやテロなどの事件を起こし世界的に注目された。
パレスチナレバノンやヨルダンなどを転々とする活動の中、同志たちと共同生活を営んだ。メイはそこで1973年3月1日午前0時20分に生まれた。母がベイルートに着いたぴったり2年後の日時だった。メイの手のひらには1円玉大の真っ赤な円があり、同志たちから「太陽を握って生まれて来た娘」と呼ばれたという。
メイは母と同志らに育てられた。男はすべて「お父さん」、女はすべて「お母さん」、子供たちはみな「兄弟姉妹」だった。「本当のお父さん」はパレスチナ人で「何回か会ったことがある人」だった。父とは名乗らないし、母も教えてはくれなかったが、メイにはこの人だとわかっていたという。彼は後に戦死したと伝えられている。
8歳の誕生会にメイは母や同志たちから「日本赤軍」のことを打ち明けられた。メイはもちろんそんなことはとっくに知っていたのだが、初めて大人扱いされたと感じて誇らしかったと振り返る。だが外ではメイは自分が重信房子の娘であることを隠し続けた。それどころか日本人であることも隠し、母と外出する時も英語で会話をした。母は、イスラエル
日本・インターポールから指名手配されていたからだ。それはお互いの身を守るためだった。母の本名を知ったのはメイが高校生の時というから徹底している。母は、メイが一人になっても生きていけるよう願い、さまざまなことを教えてくれた。日本の伝統や文化、中東の民族や宗教なども話してくれたという。そんな母は、メイが中学に通う頃から活動が忙しくなり、ほとんど会えなくなってしまう…。
2000年11月、ベイルートレバノン大学でジャーナリズムを学んでいたメイの元に衝撃のニュースが伝わる。「重信房子が日本で逮捕された!」
急いで帰ってNHKの衛星放送を見る。

「ああ、お母さん…だ。」

ベイルートでも母の逮捕はトップニュースで伝えられた。アラブの英雄の逮捕を許していのか?という論調がほとんどだった。母に会いに行くために、メイは全力を尽くした。親友や恋人に自分の「正体」を明かした。誰もが驚愕したが、誰もが涙し理解し協力してくれた。メイは生まれてから一度も国籍を持ったことが無い。同志や友人、弁護士らの支援を得て何とか日本国籍を取得した。2001 年、桜の咲く季節、メイは初めて日本の土を踏んだ。警視庁の面会室で数年ぶりに母と会った。プラスチックの板ごしにお互いの手のひらを合わせた。しばらく声が出なかった。メイは母の前では泣くまいと決めていたが涙があふれて止まらなかった。めったに泣いたことのない母の頬にも涙が伝わっていた。

現在重信房子は懲役20年の刑が確定し刑務所で暮らす。ガンが見つかり、医療刑務所で病気と闘いながら服役している。メイは日本でジャーナリストとして活躍しているが、「テロリストの娘」として差別や非難をあびることも少なくないという。だが、信念を通し続け、虐げられた人々のために身を挺して戦った母を心から尊敬している。「この母の娘に生まれてよかった」と。


以上、主な資料は彼女の自伝『秘密―パレスチナから桜の国へ 母と私の28年』が基です。
参考資料

秘密―パレスチナから桜の国へ 母と私の28年

秘密―パレスチナから桜の国へ 母と私の28年


面会のところ、僕は本当に泣きました。こんな人生を送っている母娘がいるなんて…。
因みに僕は重信房子と同じ明治大を出ています。学生運動が活発だった時代からすでに10年近く経っていたので、かなりノンポリ(死語?)な学生生活を送っていましたが、所属していた映画研究部の部室の隣が「社会科学研究会」か何かで、左翼活動家の拠点らしく、どう見ても怪しい連中が出入りしていて噂では「かつて重信房子が所属していた」と実しやかに囁かれ、ちょっと怖かった思い出があります。そんなわけで重信房子にはちょっとした親近感があり、その娘がジャーナリストとして日本で普通に活動しているということもかなりの興味がありました。

週刊文春の記事には自伝『秘密』にて告白されていること以外の新しい話題や情報はあまりありませんでしたが、イスラエルには(敵として)暗殺すべき人リストがあり、重信メイもおそらく載っているだろうが、「先に暗殺したい人はおそらくいっぱいいるはず」と自分のランキングは落ちているので大丈夫みたいなことを言っている。いやはやまだ安心して暮らせないというのに何てタフな人なのだろう。

最後に下世話な話で恐縮ではありますが、重信房子はなかなかの美人で、ハーフの娘メイはそれに拍車をかけた超美人で、モデルとか女優とかといっても通用しそうなほどであります。もちろん大変なインテリであり、美と教養を備えた女性です。「将来は中東と日本をつなぐような仕事をしたい」ということで、日本人には理解しにくい中東問題を紹介することに尽力していくそうだ。



これはメイだから書けた、力作です↓
「アラブの春」の正体 欧米とメディアに踊らされた民主化革命 (角川oneテーマ21)


故・若松孝二監督は日本赤軍連合赤軍をテーマにした映画を2本撮っていて重信房子とも交流があった。
↓これは自宅を抵当に入れ撮影資金を作り、監督の別荘をあさま山荘に仕立てぶっ壊して作った作品。劇中に重信房子が登場している。

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]

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元AKB48の秋元才加。

今回は僕の最近一番のお気に入りハーフ。元AKB48秋元才加です。
AKBファンの方には申し訳ないが、僕みたいな爺にはAKBというと「ハイエナジー&ローIQ」のイメージが強くて、単に「元気溌剌、愛嬌たっぷり」が取り得のアイドルにすぎないと思ってました。彼女に注目したのは『笑っていいとも!』にレギュラー出演していた時で、あっAKBにもこんなに頭の回転が早くてしゃべりの出来る子がいるんだとビックリし、以来、AKBが番組に出演するたびに彼女に目が釘付けになりました。小柄の子が多いAKBの中で頭ひとつ背が高いということもあって目立っていましたね。

ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』を書くことになって彼女の自伝を読んだり、いろいろなTV番組で彼女の生い立ちや暮らしを調べているうちに、いよいよファンになってしまいました。
というわけで↓


(花木マロン作)


AKB48 きってのスポーツウーマン

秋元才加
(あきもと・さやか 1988 年7 月26 日〜)
母がフィリピン人


父が日本人。母がフィリピン人。千葉県で生まれ育った。1 歳違いの弟がいる。マイケル・ジャクソン、マライヤ・キャリー、クイーンといった洋楽が朝から晩まで流れているような家に育ち、歌ったり踊ったりすることが大好きで小さい頃から芸能人に憧れていた。
2006 年2月の第2期オーディションでAKB48に加入(大島優子と同期)。4月1 日のチームK発足公演でデビュー。 以来「国民的アイドル」の一員として活躍。2010年6月の第2回選抜総選挙で17位、同年4月にはミュージカル『ミンキーモモ〜鏡の国のプリンセス〜』に単独で出演。演技力も高く評価された。10 月から『笑っていいとも!』にレギュラー出演、「男前な」キャラと軽快なトークでお茶の間でも人気者になる。この年、演出家の広井王子との自宅お泊り愛が発覚してラジオ番組で謝罪、チームKのキャプテンを辞任した。「恋愛禁止」のAKB48 にとってとんでもない大事件であった。翌年、禊の意味を込めて、東京マラソン2011に参加。見事完走してファンに感動を与え、キャプテンに復帰した。2012年には再び東京マラソンにチャリティー枠で参加した。才加は幼少時代に母の母国フィリピンを訪れたことがあり、貧民街も目にしていた。寄付金は震災の被災者と、フィリピンの医療施設などに贈られる。才加はフィリピンの子供たちの役に立てようと思い再挑戦した。結果は前年を大幅に上回る5時間39分34秒でゴール。AKB48のファンやスタッフを驚かせた。身長166センチ、合気道二段、高校時代はバスケットで市選抜メンバーに選ばれたほどの実力を持つ、自称「筋肉質アイドル」である。
2013年、女優を目指しAKB48を卒業。卒業公演の5日後に母とともに母の故郷フィリピンに渡った。そこで撮った写真を中心に構成したフォトブック『ありのまま。』を出版。
この本の中で秋元は、自身の生い立ちについて赤裸々に語り、母親がフィリピン人のハーフということにコンプレックスがあったことを告白。だが今は「AKB メンバーのだれよりも肩幅があって、筋肉質で、そういうありのままの自分を大切にしようと思った」と自身の想いを打ち明け、「同じハーフの方や、自分に自信を持てない人の背中を押してあげられたらと思います」などと語っている。





『ハーフマニア』には詳しく書いていなかったが、彼女の生い立ちについては上記にも書いた自伝的フォトブック『1st Photobook ありのまま。』にいろいろ書いてあります。


父は車寅次郎みたいな自由奔放な人でさまざまな職業に就くもののどれも長続きせず、そのため一家は貧乏のどん底にあったことなど、才加は幼い頃から辛酸をなめたことが赤裸々に描かれている。テレビのバラエティ番組では電気もガスも止められ、真冬でも水風呂に入ったり、食べ物が買えずしょうゆご飯で過ごしたこともあったと語っていました。

この本で一番印象に残ったのは母がフィリピン人というだけで小学生の頃から同級生からひどいイジメにあったと告白していること。だから才加は彼らに負けないように勉強も運動も人一倍がんばった(実際成績はトップクラスだったそうだ)。

授業参観の時のこと。父が「ハーフだ、フィリピン人だ」と才加をイジメた同級生の親に向かって
「フィリピン人のどこがいけないんだ、とやかく言われる筋合いはない。第一うちの才加はあんたのとこの子より勉強も運動も出来るし、顔もいいだろう!」
などと啖呵を切った話は爽快だった。
働かない父親は家族に辛いおもいをさせてはいたが、ハーフで生まれた子供のことはいつも気にしていたのだ。


それにしても
AKBを辞めてからの今の彼女の活躍ぶりは素晴らしく、逆に何故彼女がAKBにいたの?とまで思います。BSジャパン含むテレビ東京系で放送されている経済番組『マネーの羅針盤』では、司会のひとりとしてきちんと経済や政治の難しい話題をこなしているし、NHK総合の昼番組でもレポーターとしてレギュラー出演、全く元アイドルぽいところが無い。まるで有名大卒の女子アナのような感じなのです。
女優を目指すということでAKBを卒業したが、ラジオのパーソナリティもこなし、三谷幸喜の舞台やテレビドラマ、映画にどんどん出演するようになった。昨日6月28日に劇場公開された『奴隷区 僕と23人の奴隷』では主演も務めている。まだまだ「駆け出し」かもしれないが、幼い頃から苦労を重ね根性が座っている彼女はいずれ「化ける」と僕は踏んでいます。英会話も得意なわけだから、アジアやハリウッドでも活躍する女優になって欲しいものですね!



1st Photobook ありのまま。

モデル並のスタイルにも注目!

ハーフが登場する時代劇!?岡田眞澄2

前回は『[rakuten:hmvjapan-plus:11155351:title]』から俳優・岡田眞澄を紹介しました。
http://d.hatena.ne.jp/yunioshi/20140608

今回は『ハーフマニア』番外編で彼が出演した異色の時代劇『幕末太陽傳』(1957)について。

幕末太陽傳 デジタル修復版 DVD プレミアム・エディション

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だいぶ前の日記だがこの映画についてはちょっとだけ書いたことがある。この映画で脚本(山内久川島雄三と共同脚本)と助監督を務めた今村昌平監督と番頭役で出演した岡田眞澄が一日違いで相次いで亡くなった頃のことだ。
http://d.hatena.ne.jp/yunioshi/20060531


この映画は、日活製作再開三周年記念と銘打った大作で、日活が社運を賭けて作った作品だ。そのため、売出し中の石原裕次郎をはじめ、後に日活の屋台骨を支えることになる若手スターがゾクゾクと登場する。小林旭二谷英明左幸子南田洋子芦川いづみらだが、さすが川島雄三、彼らを主役に据えたりしない。皆傍役だ。新人だった岡田眞澄遊郭の番頭(正確には若衆。見習い中)という役で出演してるのだが、彼もまたチョイ役で台詞もわずかしかない。というか、時代劇に思いっきりハーフ男子が登場するので、観客はびっくりだ。物語の設定としては黒船・開国後の幕末の港町・品川が舞台なので、来日した西洋人と遊女との間に生まれた青年というキャラクターらしいが、そういった説明は一切無いし、眠狂四郎みたいな暗い陰も全くないので非常にシュールでシニカルなイメージの人物で、正に岡田のために作られたような役どころである。

この映画について書き出せばきりがないのだが、幕末の志士と数本の落語話を組み入れて構成した脚本と配役の妙はどの評論家もファンも認めるところで、日本映画屈指の出来なのは間違いない。
僕はむしろ作品全体を貫く映画のテンポについて絶賛したい。登場人物全員の台詞回し・所作・カメラワーク、編集のスピードがまるで上質の音楽のように心地よく響いてくる。主人公の居残り佐平次フランキー堺)が何でもホイホイチョイチョイとこなしてやり遂げていく様も小気味よく、羽織をふわっと投げてサッと着るシーン、太鼓の見事なバチさばき(フランキーは元ジャズドラマー)など、まるで手品のような観どころも満載だ。原作となった数本の落語と、高杉晋作ら志士が織り成す様々なエピソードは、ともすればバラバラになって何の統一感もない寄せ合わせの物語になりそうなものだが、そこをきっちりと纏め上げているのだ。

ところが、そのテンポが、ラスト近くになって杢兵衛大盡(市村俊幸 彼も元はジャズピアニスト)が馴染みの遊女を訪ねてやって来るところから急激に歯止めがかかる。落語『お見立て』のキャラだが、のんびりとした大金持ち杢兵衛が所謂ズウズウ弁で佐平次とやりとりをする。これまでホイチョイとこなして来た佐平次がこの杢兵衛のせいでだんだんとやりこめられて勢いや調子をどんどん失っていくのだ。この辺りの演出も十分計算されていてラストシーンは墓場ということもあって映画全体がどことなく暗〜くなっていく。(最後の最後は軽快な音楽で終わるが)
これらは完全に監督の手腕によるものだろう。脚本、演出、カメラ、編集のテンポをこれだけうまくコントロールするのは至難の業だ。川島雄三の代表作としても知られるこの映画はもっと世界的に評価されるべきものだと思う。クロサワや小津の作品とまったく遜色ないはずだ。

洋画・洋楽の中の変な日本・がんばる日本『世界に誇る日本の映画監督』
http://www.yunioshi.com/japanesedirectors.html#kawashimayuzo


僕は学生時代にこの映画を確か池袋の文芸坐で初めて観た。明大映研の大先輩ということで興味があったものの、これほど面白い映画だとは知らずに観たのだが、映画が終わって観客から拍手が沸きあがったのにはビックリした。日大芸術学部映画学科の友人がいたのだが、彼も学生時代大学の授業の中でこの映画が上映されて、その時も学生たちの間から自然と拍手が起きたそうだ。面白くて感動する映画は古今東西多数あるが、映画祭でもないのに終わって拍手される映画なんて今でも非常に珍しいだろう。


幕末を舞台にした時代劇に外国人が登場する映画はけっこうあるのだが、ハーフが出てくるのはこれまた珍しい。映画の冒頭、現在の品川(1957年当時)の街並みの様子から始まるのでこれもギョっとする。ラストも現在の品川に戻り、主人公佐平次が走っていくという構想だったがさすがに周囲から反対されて断念したという経緯がある。ともあれ異色の作品でもある。
まだ観てない人はぜひともご覧ください。日本人として知っておくべき日本映画のひとつです。ただ、遊郭が舞台なのでお子様にはお薦めできませんが。

岡田眞澄とE.H. エリック

ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』、今回はスターリンそっくりの岡田眞澄です。


↑渡辺孝行作


兄はビートルズ来日公演の司会者E.H. エリック


岡田眞澄
(おかだ・ますみ 1935 年9 月22 日〜 2006 年5 月29 日)

母がデンマーク


父は日本人画家の岡田穀(みのる)、母はデンマーク人のインゲボルグ・シーヴァルセン。母はコペンハーゲンで13人兄弟の末っ子として生まれた。20歳の時、フランス・パリに出てカフェでバイトをしながらバレリーナを目指した。この頃、画家を目指す若きアーティストたちはカフェに集まり芸術や人生について語り合っていた。インゲボルグはそこで日本人の画家・岡田穀と出会い、ふたりは恋に落ちた。そして結婚。移り住んだニースで長男・泰美(たいび・後のタレントE.H.エリック)と二男・眞澄を生んだ。貧しくつつましい生活を送った岡田一家。だが、第二次世界大戦の激しい戦禍に見舞われ、一家は台湾の親戚を頼り手荷物一つ持って移り住む。台湾では西洋人の母はスパイ扱いされ、憲兵隊に外出を禁じられるなど厳しい待遇を受けた。戦時中、苦しい生活の中で母はいつも息子たちに「エレガントに生きなさい」と言い聞かせた。眞澄は母の教育方針によってどんな時も優雅さを忘れなかった。やがて終戦。日本に帰国した一家は焼け野原となった東京の街を転々として過ごした。母は現在の日本青年館にあった在日米軍の施設で翻訳家として採用され、住み込みで働いて一家の家計を支えた。当時家族の同居は許されなかったが、母を慕う眞澄は施設に忍び込んで生活したという。


兄弟はいかにもハーフ顔なのに「流暢な江戸弁」を話していた。日本語しか話せない息子たちに母は「これからは英語ぐらい出来なければいけません」と二人を横浜のインターナショナルスクールに通わせた。英語やフランス語に堪能なのは日本で学校に通って覚えたからというのが驚きだ。

成長した眞澄は、兄のE.H.エリックとともに日劇ミュージックホールの座長の泉和助に弟子入りしたのをきっかけに芸能界入り。東宝第6期のニューフェースに合格。すぐに日活に移り1955年、俳優として映画デビューした。以来、スマートな二枚目俳優として映画、テレビドラマ、舞台はもちろん、モデルや司会者、英・仏語に堪能なことからミス・インターナショナルコンテストのホスト役としても活躍した。数々の美女と浮名を流し芸能界きってのプレイボーイとしても知られ、つけられたあだ名がジェラール・フィリップの当たり役にちなんだ「ファンファン」。だが眞澄は本来フェミニストであり持ち前のダンディさ・優雅さは男女問わず憧れの的だった。晩年はバラエティー番組にも引っ張りダコの
人気ぶりだった。デンマークに帰国していた母の最期に、母が知る唯一の日本語の歌を歌って見送ったという眞澄も2006年、食道ガンで亡くなった。


以上が『ハーフマニア』本文であります。


兄弟の父親・穀は、パリ留学時代に画家・佐伯祐三(『郵便配達夫』で有名)らと交流があったらしいが、画家としてはあまり成功した方ではないようだ。一家は第二次大戦中・戦後にフランス→台湾→日本に移り住んだというが、かなりひどい差別と迫害にも遭った。戦後、日本に帰国してからも金銭的に厳しい生活だったのは想像に難くない。眞澄らは母から「エレガントに生きろ」と言われても実際は食うや食わずの日々だったろう。それでも一家は常に前向きに考えて生きた。

岡田眞澄の母インゲボルグの伯母エリーネ・エリクセンは、コペンハーゲンの有名な人魚姫像のモデルだった(因みに作者はその夫)というから、もともと美形な家系だったのかもしれない。おそらく僕が初めて見た眞澄は、僕が小学生の時の人気番組『マグマ大使』(原作・手塚治虫)に出ていた主人公の父親役だ。当時、毎週夢中になって観ていたのだが、子供心に「こんな超ハンサムなガイジンがマモルのお父さん?」とびっくりしたものだ。

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一方E.H.エリックの方は当時CMなどに出ていて、耳を動かすという技?をよく披露していた。俳優というより芸人に近い存在だった。『ハーフマニア』の「偽ハーフのコーナー」に書いたトニー谷に認められて芸能界入り、すぐ泉和助に弟子入りし、日劇で修行を積んだという。この彼についても、ずっと後になってビートルズ来日公演の司会者だったという事実を知った。マモルのお父さん役の俳優・眞澄と実の兄弟だと知ったのもかなり後になってからである。
http://www.yunioshi.com/beatlesinjapan.html


ともあれ、兄弟は日本の芸能界においてはその才能と美貌ぶりで日本全国に知れ渡ることになった。

だが、ハーフの俳優が日本のテレビや映画で活躍するのはかなり難しい。役が限られてしまうからだ。岡田眞澄の時代は特にそうで、もろにハーフの容貌だから特異な役ばかりだった。少し気の毒なような気がする。『マグマ大使』以外のテレビ・映画でも「無国籍映画」みたいな作品の中で、外国のマフィアとかスパイ役ばかり演じていた感がある。本人談だとイタリアの巨匠ビスコンティに『山猫』の主演としてオファーをされたそうだが、諸事情で実現できず(実際はアラン・ドロンが演じた)、そんな事があったのならむしろ海外で活躍すべきだったのではとも思う。ハリウッド映画では『将軍』(1980 正確にはテレビミニシリーズ)でブラザー・ミカエル役というこれもチョイ役で出演。トンデモ映画としてつとに有名な『ハンテッド The Hunted(1995)』にも警部として出演しているが、

http://www.yunioshi.com/movies.html#Anchor535481

これは凄く颯爽と登場したので、何がしかの絡みがあるのかと期待していたら、あっという間にニンジャに殺されてしまい、全然活躍していない…。


晩年はとにかく「ダンディ」「セレブ」「モテモテおじさん」のイメージで、俳優というよりはバラエティ番組に活躍の場を広げていた。ファンファン大佐もそのひとつだが、本人は本当に嬉々として演じていたのだろうか?


彼がデビュー間もないころ出演した(僕が愛してやまない映画)幕末太陽傳については次回で。


エミー賞受賞作。当時このドラマで全米が日本ブームになった。
『将軍』
将軍 SHOGUN スペシャル・コレクターズ・エディション (初回限定生産) [DVD]


↓これこれ!「間違った日本」を描く逸品!?
[rakuten:auc-tecc:10010896:image]

和服の似合う日蘭ハーフ、宮沢りえ

ちょっと間が空いてしまいましたが、『
ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!
』の中身紹介を再開いたします。お待たせして申し訳ありません。

今回は女優・宮沢りえです。
花木マロン作↓

ヘアヌード、婚約破棄…「すったもんだ」の実力派トップ女優
宮沢りえ(みやざわ・りえ 1973 年4 月6 日〜)
父がオランダ人


父はオランダ人だが、りえがわずか生後4カ月の時、両親が離婚。父はオランダに帰国し以来母・宮沢光子と伯母のもとで育てられる。小学校5年の時にモデルとしてデビュー。雑誌 『週刊セブンティーン』(当時)の表紙モデルとなる。1987年、『三井のリハウス』のCMの初代リハウスガール・白鳥麗子役で注目を集め、トップアイドルの一人となった。「りえママ」と呼ばれた母がマネージャーとなって敏腕を揮い、テレビドラマ、CM、映画、舞台と活躍。小室哲哉の作曲プロデュースによる『ドリームラッシュ』で歌手デビュー。紅白出場も果たしている。1991年、18歳の人気絶頂期にヘアヌード写真集『Santa Fe』篠山紀信撮影)を発表。世間をあっと驚かせた。これは150 万部の大ベストセラーとなりヌード写真集売上げの記録を作っている。
1992年には当時関脇の貴花田(後の横綱貴乃花)と突然婚約を発表。国民的人気の二人の婚約はNHK のニュースで紹介されるほどのインパクトを世間に与えた。が、わずか2ヶ月で解消されてしまい、これまた世間を騒がせた。チューハイのCM に出演した時は自ら「すったもんだがありました」という自虐的なセリフを吐き、これが1994年の流行語大賞に選ばれるほど話題となった。だが この後、りえは数々の芸能人男性との交際や自殺未遂騒動、激やせしたことから拒食症の噂も立ち、世間からバッシングされ、人気も衰え、しばらく低迷期に入った。転機となったのはヨン・ファン監督の香港映画『華の愛〜遊園驚夢』(2000年)での主演・ジェイド役。これがモスクワ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞し、りえは一気に演技派女優として再び表舞台に立つ。
以来山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』、黒木和雄監督の『父と暮らせば』などに出演。映画賞を総なめし、NHK 大河ドラマや世界の蜷川幸雄の舞台などにも抜擢され、今や押しも押されぬトップ女優となった。父はオランダ人だがいかにもハーフ顔というのではなく、日本的な美人で着物も良く似合い時代劇でもしっくりとあてはまる。不思議な女優だ。


以上が『ハーフマニア』に掲載した内容であります。最後に「日本的な美人で時代劇でもしっくりとあてはまる」と書きましたが、父がオランダ人というのにベッキー滝川クリステルのようなハーフハーフした顔でない。サントリーのお茶飲料「伊右衛門」のCMや時代劇にも普通に溶け込んでいるので、若い人達の中には彼女がハーフだと知らない人もいるのではないでしょうか?
彼女の父については全く公表されていないのは「りえママ」の方針なのかもしれませんが、あるいはアジア系のオランダ人なのかも。というのは、ご存知のようにオランダは大航海時代にアジアを広く制覇した国のひとつなのでありえる話でしょう?因みにヴァン・ヘイレンのアレックスとエディ兄弟の父はオランダ人、母はインドネシア人です。インドネシアは1600年頃にオランダの東インド会社によって支配された歴史があり、密接な関係がありますから、結婚もごく普通に行われているようですね。(宗教の違いは大きいかもしれませんがね)

『ハーフマニア』では書いてなかったのですが、作詞家なかにし礼の著『人生の黄金律 共生の章―なかにし礼と華やぐ人々』という本でりえ本人の体験談にこんな話が載ってました。
りえが28歳の時、レンブラントの『夜警』が観たくなって、友人とプライベートでオランダに渡った。食事をしようとレストランに入ったら、ウエイターは何も聞かずに友人には英語のメニューが、りえにはオランダ語のメニューが渡されたという。何故彼女にだけオランダ語のメニューが渡されたのか?特に父の国ということを意識したわけではなかったのだが、その時「何か不思議な気がした」「居心地のよい」思いがしたそうだ。

ともあれ、僕が昔在籍した会社(CM製作で有名)ではデビュー作の『リハウス』からシュワちゃんと共演した『アリナミンV』、そして現在の『伊右衛門』シリーズを手がけていて彼女の主演映画にも協力していた過去があるので、僕も中学生くらいの彼女から知っているので何だか凄く親しみがあり、ずっと応援しています。

僕のサイトでも
http://www.yunioshi.com/japaneseinmovies2.html#miyazawa
彼女のことは紹介していますが、アイドル時代の溌剌としたイメージからしっとりとした演技派女優によく進化したものと感心しています。
まだまだ彼女の実力からすれば、いい仕事が舞い込んでくるでしょうし近い将来さらにとんでもなくビッグな賞を貰うような気がするのですが。

それにしても「ふんどしヌードカレンダー」(興味のある人は画像を探してください)と『Santa Fe』と貴花田との婚約にはビックリ仰天させられましたなあ。

というわけで参考資料は
人生の黄金律 共生の章―なかにし礼と華やぐ人々

宮沢りえ 悲劇の真相

そして最後に
↓今で言えばAKB48のセンターの子が突然「ヘアヌード」写真集を出したようなもので、ファンもファンで無い人も若者もオヤジも爺も本屋にすっ飛んだのだよ。

Santa Fe 宮沢りえ

Santa Fe 宮沢りえ

実は金髪だった、浅野忠信

今回の『ハーフマニア』からの注目の一人は浅野忠信です。今や渡辺謙真田広之とならぶハリウッドスターになりましたね!

渡辺孝行氏作

僕が始めて彼を見たのは『バタアシ金魚』の時だったが、まだ傍役にすぎなかったが顔があまりに強烈でよく覚えている。
石井克人の『鮫肌男と桃尻女』、大島渚の『御法度』など全く違う難しい役どころを気負うことなくサラリとやっているように見えて、この人は絶対大物になると感じたものだ。詳しいプロフィールなどは僕のサイトでも書いているのでこちらもご参考ください。

http://www.yunioshi.com/japaneseinmovies.html#asano


ここで思いっきり祖父はネイティブ・インディアンと書いてますが、実は浅野本人が公表していたことで、僕もその通り書いたもの。ところがNHKの番組で全く違う事実が判明した。この番組には泣かされました!『ハーフマニア』の執筆前に観ていたのだが強烈に印象に残っていたので、ぜひこの話を書きたかったのです。
では以下ご紹介いたします。



カルトムービーからハリウッド大作まで変幻自在の映画俳優

浅野忠信

祖父がオランダ、ノルウェーアメリカ人
あさの・ただのぶ 1973 年11 月27 日〜


日本では巨匠から精鋭と呼ばれる若手監督まで引っ張りダコの俳優。米アカデミー賞外国語映画賞候補になった『モンゴル』で主役チンギス・ハーンを演じたのをはじめ、『珈琲時光』『マイティ・ソー』『バトルシップ』『47RONIN』などに出演。世界からも高く評価されている。父はタレントのマネージャーだった佐藤幸久、母はアメリカ人と日本人のハーフ・順子。浅野はクォーターにあたる。現在はいかにもアジア人ぽい風貌だが、幼少の頃の写真を見ると金髪で、確実に西洋人の血が通っていることが分かる。

浅野本人は母順子から母方の祖父がネイティブ・アメリカンと聞かされており、プロフィールなどでもそう紹介されていた。2011年、NHKの番組『ファミリーヒストリー』のスタッフが順子の生い立ちを調査したところ、順子本人も知らなかった事実が判明した。
順子の母イチ子は、元芸者で離婚歴もあったが戦後間もなく横浜で15歳年下のアメリカ駐留軍の料理兵・ウィラード・オバリングと出会い結婚。ウィラードが朝鮮戦争に従軍していた1950年に順子が生まれた。兵役を終えたウィラードは帰国することになり、イチ子と順子も連れて帰ろうとしたが、直前になってイチ子はアメリカ行きを断り、離婚して順子とともに日本で暮らすことになった。順子はまだ4 歳であり、父ウィラードの思い出はほとんど無いという。その後父とは音信不通となってしまったため、順子は父とはその後一度も会っていない。イチ子からはウィラードはネイティブだったと聞かされていてそれを信じ込んでいた。しかし、NHKはアメリカで取材したところウィラードはオランダ系移民の父とノルウェー人系移民の母のハーフであることが判明。ウィラードの出身地ウィノナは昔からネイティブが多く住む地域だったので、英語があまり得意でなかったイチ子が聞き取り間違えしていたようだ。
ウィラードはアメリカで再婚し新たな家族を設けていた。妻の連れ子をかわいがり良き父だったという。1992 年に亡くなったが、遺品の財布の中に4 歳頃の順子の写真が大事にしまってあったのが見つかった。ウィラードは日本に残した娘のことを生涯忘れてはいなかったのだ。番組では浅野と母順子がその写真を見て号泣。さらにアメリカからウィラードの息子たち(連れ子)がやって来て感動の対面。初めて会う異母兄弟たちと抱き合った。

浅野は自分にオランダ人、ノルウェー人の血が流れているのを知りびっくりしていたが、今彼がハリウッドをはじめ世界の映画界で活躍しているのは、根っからの国際人である彼には必然のことだったのかもしれない。



あの番組の感動は僕の拙い文章ではなかなか伝えられない。映像をぜひ見てもらいたいところです。
親子の絆はどんなに離れていても、どんなに時間が経っても簡単に崩れるものではないのだなとこの歳になって改めて思い知らされました。

それと母・順子はハーフだけにかなりの美人ですが、順子本人もインディアンの血が流れていると信じきっていたようで、「自分はインディアンの女性みたいでしょ?」とインタビューに答えていて、そこはさもそう見えるから不思議ですね。


ところで去年、東京のお台場に出来たマダムタッソーの蝋人形館に行ったら浅野の蝋人形があってビックリした。それも何でか三池崇史監督の『殺し屋1』に出演した時の彼です。


(ユニオシ撮影)

ヤクザの若きリーダーだが、究極のマゾという設定の役。ヤクザ定番の「指詰め」の代わりに(嬉々として)舌を切っちゃう超変態です。この時の浅野の演技は僕にとってベスト1です。があまりにマニアックだし、すごい怖い人形で、子供が見たら泣き出すぞ。ナゼこのキャラ?と思いました。子供の頃は祖父の遺伝子からか金髪だった彼。もしかしたらこの人形に近い金髪だったかもしれないですねえ。興味のある方はぜひ行ってみてください。

ユニオシ推薦の映画はその『殺し屋1』。
タランティーノの『キルビル』に大きな影響を与えた作品。
鬼気迫る浅野・変態浅野の演技が爆発!


上と違って「正統派」のような演技を見せて泣かせてくれる。

ハーフマニアはコラムも力いっぱいですよ!

ハーフマニア―日本の有名人の混血をカリカチュアで大紹介!』ノーカット版、今回はハーフ本人でなく、ハーフにまつわる話として「コラム」に書いたものを紹介します。

中華人民共和国中華民国

『ハーフマニア』で王貞治について書いていた時期のことです。「中国と台湾が合同で尖閣諸島の接続海域に侵入した」というニュースが流れたのですが、それをたまたま一緒に聞いていた僕の若い同僚が「中国と台湾って違う国!?」と言っていたのに僕はびっくりしました。今の若者たちは中国と台湾について歴史で教わってないのでしょうか?これを聞いて「台湾は中華人民共和国の一部と思っている日本人は実は多いのではないか?」とちょっと僕は危惧したのです。
編集のハマザキカク氏もちょうど『ニセチャイナ』という本を企画中ということで、この二つの中国について説明が必要だとなり、このコラムを書くことになりました。
中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)は違う国です。しかし、現在日本で売られている世界地図では台湾には「中華民国」の国名の表示が明解にされてなく、ただ「台湾」となっています。いろんな事情があってそうなっているのです。そう至ったのにはかつての日本の植民地政策がかなりの割合で影響しているといえます。はぜひ今の日本人特に若い人達に知ってほしいと思い書きました↓


コラム 二つの中国
中華人民共和国中華民国 王貞治=台湾人説について)
辛亥革命後の中国の状況は非常に複雑だ。1912 年、南京に中華民国が打ち立てられ、孫文が臨時大総統に一度は就任したものの、清朝の再有力者で総理大臣だった袁世凱が、清朝宣統帝の退位と引き換えに中華民国臨時大総統に就任した。しかし袁と対立する軍閥系の臨時政府が各地に林立することになる。袁は独裁を進め帝位を望んだため国民から強い反感を買い反乱が起こった。袁はその鎮圧に当たるが、その最中に病死し袁世凱政権は崩壊した。その後は複数の軍閥による政権が目まぐるしく変わった。孫文の跡を継いだ蒋介石が各地の政府を統一し1928年に南京に別の中華民国国民政府を樹立させる。だが、同じ頃日本の侵略も本格化し東北部には満州国が建国された。満州以南は主に蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党の二大勢力が存在したが、共通の敵・日本と戦うために一時手を組んだ(第二次国共合作 1936年)、そして1937年から本格的に日中戦争に突入した。1945年、終戦により日本が中国大陸から退却すると、この二大勢力は再び対立を深めた。中国大陸で両者は覇権を競い激しい内戦状態になる。やがて毛沢東共産党が勢力を広げていき大陸を制覇した。敗れた蒋介石一派は大陸から逃れて台湾に「中華民国を移した。そして大陸に残った共産党は1949年に中華人民共和国を成立させた。以来、世界に二つの中国が存在することになるのだ。


王貞治)一家は中華人民共和国成立以前に大陸に在った中華民国の国籍を取得したのだった。戦後すぐは中華人民共和国は国際社会から認められておらず、アメリカなど資本主義世界は中華民国の方を正式に中国と認め、中華民国が国連の設立時から加盟している。アメリカに追随していた日本も当然中華民国と国交を結んでいる。日本で暮らす華僑たちも、この共産党・大陸系と国民党・台湾系の二手に分かれて対立していた。なお、大陸生まれの(王貞治の父)仕福は、後に華僑の同胞に勧められるままに中華人民共和国の国籍を持つことになったが、妻・登美と貞治ら4人の子らは中華民国の国籍である。仕福は、家族は日本と国交のある中華民国の方が日本で暮らすには都合がよいだろうと考えたらしい。巨人で活躍し日本のヒーローになった貞治だが、中華民国からも国民的ヒーローにされた。貞治は1965年に台湾に招待され大歓迎を受けている。蒋介石総統・宋美麗夫人とも会見し、その模様は日台で大ニュースになった。それは中華人民共和国側を牽制する、いわば政治的なデモンストレーションであり、貞治はそれに利用されたと言える。「王貞治=台湾人」のイメージはこうして作られたものであり、王自身も父・仕福も台湾には縁はないが、王が中華民国籍を現在も保持しているのはこうした事情があったのである。だが、戦後数年を経て中華人民共和国が国力をつけてくると国際社会も無視できなくなった。1972年、米国・ニクソン大統領が電撃的に訪中し、中華人民共和国との国交回復を宣言。同年9月には田中角栄首相も訪中し、日中国交回復を実現した。また同時に中華人民共和国が国連に加盟、これは国際社会が中華人民共和国を正式に認めたことになり、対立する中華民国は国連を脱退(実際は除名)、日米からは「もうひとつの中国・中華民国(現在は台湾と呼称することが多い)扱い」となり国交が断絶されて現在に至っている。だが、文化・経済では日台は今なお非常に緊密な関係を保っている。また、台湾では外省人(主に戦後国民党に従って中国大陸から来た人)と本省人(もともと台湾島出身)と区別することがあるのだが、本書に登場する金城武蓮舫一青窈余貴美子らの親は台湾生まれの本省人か、または台湾に渡って暮らした日本人であり、貞治のように「父は大陸生まれの中国人で台湾とは所縁の無い人」でありながら「中華民国籍」を持っている人とは(時代が違うこともあり)かなり事情が異なるのである。



以上、十数年に及ぶ清国崩壊後から中華民国建国・国民党政府設立などまでかなりシンプルに纏めてしまったし、逆に纏まりきれない文章なので言葉足らずで分かりにくいのはどうかご勘弁ください。中国本土に林立した複数の中国についてはおそらく『ニセチャイナ』が最も詳しいでしょう。ご興味ある方はぜひ↓

とういうわけで『ハーフマニア』には台湾(中華民国)に出自を持つ人として、王貞治の他、余貴美子蓮舫渡辺直美金城武一青窈、ケイン・コスギを紹介しています。いずれの方も両親の出会いは劇的で、ハーフの子たちは両親からの慈愛に満ちた暮らしをしていました。しかし、「台湾」であるがゆえの辛いこともあったのは事実のようです。
『ハーフマニア』は、単にハーフたちのプロフィールだけを紹介しているわけでなく、ハーフ誕生の要因として歴史と、現在の国際情勢・結婚や出生など社会情勢についてのコラムもあるのです。

余談ですが台湾出身で日本でおなじみなタレントや歌手としては
ジュディ・オング欧陽菲菲テレサ・テンなどがいて、それぞれ紅白出場やレコ大、有線大賞受賞など大活躍しています。テレサ・テンの父は大陸出身の国民党の兵士で、蒋介石に従って台湾島に渡った人でした。

王貞治についてはこの↓本が本当に大変な参考になりました。著者の熱意には頭が下がります。王貞治に思いいれのある僕らの世代はもちろん、少年少女にもぜひ読んでもらいたい感動ドキュメンタリーです。
百年目の帰郷―王貞治と父・仕福 (小学館文庫)


最後に台湾については渡辺直美のこの本が意外と面白くて特に食べ物が美味そうで美味そうでタマラナイです。行きたいなあ台湾!

渡辺直美のたら福まん腹 台湾 ワタシ、地元ダカラ、穴場、知ッテルヨ!

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